はじめに
1919年場所はニース(南仏)、第一次大戦直後のモジリアニの作品である。彼が亡くなる1年前、皮肉にも最も幸福な時期であった。
当時のフランスは180万人もの戦死者を出している。その中には子供たちもいた。戦争で最も犠牲になるのが実は子供たちです。パリ市内には多くの孤児や浮浪児がいたのです。
当然、避暑地であるニースにも、疎開先として少年少女が沢山いたに違いありません。食糧不足や生活困窮が深刻化し、一部の子供たちは疎開したり、孤児になったりしました。
おそらくそうしたニースに暮らす子供たち達をモデルとして描いた一人が「おさげ髪の少女」だったのでしょう。
当時のモジリアニ自身は、体はボロボロで、パリ時代に酒と薬物に溺れ、肺結核は末期の状態で、死を覚悟してニースにやってきているのです。
晩年の2年間は、彼にとっては天国だったに違いありません。というのも、駆け落ち同然で妻ジャンヌと同棲し、子どもに恵まれたのです。
少女の絵を見ると、瞳が描かれている数少ない作品で、頬は赤く健康的で、非常に生命感を感じる絵は今までのタッチと随分違っています。
それだけ父親になった幸せと生きるよろこびにあふれ躍動感さえ感じます。今までの闇の世界をさまよっていたことを考えると最後の一条の光だったのではないでしょうか。
地獄は一定すみかぞかし
地獄はいったいどこにあるのでしょう。大地の底(タルタロス)でしょうか。ギリシャ時代にはそう考えられていました。タルタロスはギリシャ語で地獄の意味だからです。
しかし、本当は今、生きているこの世界こそが地獄かもしれません。当然天国も、遥か宇宙の果てではなく、今、生きている世界ではないでしょうか。
そういう意味では、この現実世界の中で、天国も地獄も味わって生きているということになります。そうです。実は生きるということ自体が地獄なのです。
奇しくも、親鸞聖人が言った「地獄は一定すみかぞかし」なのです。つまり、強欲の中で生きている人間は、地獄を味わうことになるのです。しかしたまには天国も味わっているかもしれません。
ところで、モジリアニの人生を振り返ってみると、まさに地獄の中を彷徨っているようにも見えます。肺結核に侵され、その苦しみを紛らわせるかのように大量の飲酒と薬物におぼれ、35歳という若さで結核性髄膜炎で死亡する。
貧困と生来患っていた肺結核が重なり、地獄のような生活を通して絵画に没頭する様は、まるで「地獄は一定すみか」だったに違いありません。
マリアの出現
モジリアニの晩年の死ぬ前の2年間は、彼にとっては天国だったのでしょう。なぜなら、ジャンヌ・エピュテルヌが現れ、駆け落ち同然のように同棲したからにほかなりません。
パリの売れない貧乏画家は、この時期は、今までも暗い絵から、明るい絵が多くなります。しかも、市井の貧しい少年少女をモデルとした肖像画を描くようになります。
中でもこの「おさげ髪の少女」は目玉のない絵が多い中でも数少ない目玉まで描いたものになっています。ちょうどそのころ、女の子に恵まれ、幸福感が絵に現れているようです。
無表情の作品が多い中でも、この絵はかすかな微笑さえ感じるものとなっています。青い目も血色の良い頬も、なぜか生命力が漂っているようにも見えます。
この最後の晩年は、彼にとってはジャンヌというマリアが現れたに違いないのです。彼女は美術を志し、モデルをしながら、絵を描いていただけあってセンスもあったようです。
その影響は、モジリアニの絵に多分に影響を与えていたに違いないのです。死後の絵画のほとんどはこの晩年に集中しており、世界的にも高く評価されています。
現在この絵は、名古屋市美術館でみることができます。現在その価値は80億円ともいわれています。
一性の経験
モジリアニが最後の晩年を過ごした2年間は、まさに天国だったに違いありません。最愛の妻ジャンヌとニース(南仏)という避暑地で過ごせたことは「一性の経験」だったのです。
他者と一体となるとき、そこに愛が生まれ、神と一体となっているということです。少し大げさかもしれませんが、他者との一体となる時こそ自然や宇宙との一体感を感じ、神を経験しているといるということです。
どんな人でも、誰かある人と愛の関係に入ったときに、そこに神が出現し一体となることができるのです。それが「一性の経験」ということです。
モジリアニが自己中心性という孤立から抜け出し、他者と一つになることは自然と一つになることであり、万物と一つになることです。
なので、奇跡が起こるのです。すでに彼は、死を覚悟し、自己中心性は崩壊していたのでしょう。「おさげ髪の少女」は田舎のどこにでもいる少女をモデルとしているのですが、そこに神を見たに違いありません。
どうです。今までの彼の描いた絵とは、まったく違った雰囲気を醸し出していませんか。とにかく明るい色調と、青い目を描いていることは今までの絵と違います。頬も口も赤く描かれていることに、今の喜びが伝わってくるようです。
おわりに
最晩年、といってもまだ30代前半の若さです。すでに死を覚悟して南仏の避暑地、疎開先でもあり、そこで2年余りを過ごしています。
しかし、、第一次大戦の影響を多分に残し、貧困にあえぐ少年少女を前にして、なすすべもありません。せめて、モデルとなって、少しでも生活の足しにと考えたのかもしれません。
「おさげ髪の少女」はまだ幼さが残る顔立ちと、何とも言えない愛らしさが漂っています。それは作者の心の繁栄だったのです。病魔と貧困に満ちていた彼は、そのモデルに神を見たに違いありません。
そこには、何の衒いもなく、ただ無我夢中で描いたに違いありません。なんだか、初めて自分に子どもが生まれ、その子の将来の姿を重ねたのでしょう。その願いも、絵の中に漂っているように見えるから不思議です。
モジリアニは、病魔と酒と麻薬におぼれ、言って見ればふしだらな生涯だったのですが、一方で、きわめて人間的な自由を謳歌した生涯だったとも言えます。
いうなれば、子どもがそのまま大人になったような、疑うことを知らず、純粋でいて、魔法のような感動と驚きに満ち溢れた人生だったに違いありません。アインシュタインは芸術家について次のようにコメントを残しています。
わたしたちが体験しうる最も美しいものとは、 神秘です。 これが 真の芸術と 科学の 源となります。 これを知らず、もはや不思議に思ったり、驚きを感じたりできなくなった者は、死んだも同然です。『アインシュタイン 150の言葉』 ジェリー・メイヤー&ジョン・P・ホームズ 編ディスカヴァー・トゥエンティワン