目次
- はじめに
- あらすじ
- 神の痕跡
- ロバの皮の本当の姿
- ロバの弱さが私を呼ぶ
- まとめ
はじめに
ペロー童話に『ロバの皮』(Peau d’Âne)という物語があります。この童話はシャルル・ペローが書いたもので、1694年に小冊子として刊行されています。その後、1781年に『眠れる森の美女』や『サンドリヨン』、『赤ずきん』などの童話集として一緒に収められました。
日本のペロー童話集にはこの『ロバの皮』は入っていないため、あまりなじみのない物語です。
ところで、フランス語でロバはâne(アーヌ)といい、馬鹿とか間抜けという意味でもあります。「ロバは叩いても馬にはならぬ」ということわざ通り馬と比較して劣るものという意味が込められているのです。
しかし、ロバは大変役に立つ動物で、重い荷物を運んだり、蹴られても抵抗せず、エサはなんでも食べるなど「謙遜で柔軟な」性格です。
ロバが荷物を運ぶ姿は、まるで人間のもろさや、そして醜さなどの罪を背負っているものとし聖書にも登場します。なので、ロバは、「貧しい人とともにへるくだる」正しい人の大路を現しているのです。
あらすじ
さて、その『ロバの皮』の童話のおおよその内容は以下の通りです。
王は、いまわの際の王妃の遺言で、王妃と同等の美貌と美徳を兼ね備えた女性としか結婚しないと誓いました。王妃の死後、再婚して世継ぎをもうけるべきとの勧めを受けた王は、亡き王妃との約束を守るためには自身の娘である王女と結婚するしかないという結論に至ります。
自分との結婚をあきらめさせるため、王女は名付け親であるリラの妖精の助言を受けて到底実現不可能な無理難題を王に対して突き付けます。
しかし、王はその要求どおりに空の色、月の色、太陽の色のドレスを婚礼の贈り物として与え、ついには王国の富の源であった宝石のフンをするロバを殺してその皮までをも王女に贈っりました。近親婚を避けるため、王女はロバの皮を身にまとって王国を脱出します。
「ロバの皮」を身にまとった王女は、ある国で豚飼いとして雇われることになりました。その国の王子が森の中の小屋にいる王女を目にして、恋に落ちました。
恋の病にかかった王子は、病床から「ロバの皮」に自分が健康を取り戻せるようにお菓子を作ってくれるよう頼みます。王女はケーキの中に自分の指輪を入れて焼き、それを発見した王子は自分の恋心が報いられたことを知ります。そして、その指輪がぴったりと合う女性と結婚すると宣言します。
王国中の娘が城に集められ、高貴な者から順々に指輪が合うか試していきました。最後に残ったのが卑しい「ロバの皮」であったが、その指には指輪がぴったりとはまり、王女の身分も明らかになりました。王子と王女の結婚式にはリラの妖精と王女の父である王もかけつけ自分たちの結婚も宣言します。
神の痕跡
人生を旅に例えるなら、誰しも生涯、平坦なところを歩いているわけではありません。山や谷や暴風雨などと遭遇することはしばしばです。
予想もしていなかった障害物に道をふさがれたら、大抵の人はたじろいで、しばしばどうしたらよいのかわからなくなってしまうでしょう。
作家の柳田邦男は、そんな時、脳裏に浮かんでくるのは、母が口癖にしていた言葉だといいます。
「仕方なかんべさ」、「何とかなるべさ」と。
この2つのことばは、パニックに陥ったりうつ病になりそうになった時、どれほど防いでくれたか計り知れないといいます。
父親が早世し、母が手内職で家計を支えていた時もこのことばが口癖のように記憶に残っているといいます。
母にとって「仕方なかんべさ」という言葉は、単なるあきらめではなかったのです。
人間にはどうにもならない運命というものがあります。そういう運命のいたずらにさからって力尽きてしまうのです。悲しみや苦しみを背負いながらも、コツコツと働いて生きていけば、いつか必ず良い日が来る、だから「何とかなるべさ」というのです。
神は、貧しい者、虐げられた者、苦しい者、祈り求める者に対して救いが無償に送られるといわれています。
神はいるかいないかわかりませんが「神の痕跡」だけを残して通り過ぎるのです。その通り過ぎた後に、幸運が待ち構えているのかもしれません。
なので、「何とかなるべさ」といって、毎日コツコツ働いていれば幸運は必ず来るようになっているのです。まるでロバのように、醜いけれど、従順で、コツコツ働くものに神は現れるのです。
ロバの皮の本当の姿
ロバは本来、馬鹿とかのろまとかの代名詞になっています。しかし、ほんとうは辛抱強く、人間にも従順で、コツコツと働くやさしい動物です。
王様とその娘との関係は、妻を亡くした王様の今までいかに裕福で贅沢なことをしていたかの戒めです。おまけにロバがからの無償の財産も、ロバを殺したときに気づいたのでしょう。
娘は城を飛び出し、ロバの皮をかぶり、汚い身なりとなって農場で働くのです。おそらく今まで、何の不自由もなく至れり尽くせりで育ってきたことの報いもあるのですが、娘は覚悟ができていました。
神の使いである妖精が仕向けたことなのでしょう。人間はいろいろな運命を背負っており、その運命を変えるわけにはいかないのです。その運命に負けずにコツコツと働いき続けたからこそ、良い日が待っていたともいえます。
おそらく家出した王女は、王様との結婚なんて考えられないという怖さと「しかたなかんべさ」という気持ちではなかろうかと思います。なぜなら、自分にも王様を捨て、身分を一切捨てて家出したという負い目があったからです。
そんな王女が、ある時、その土地の王子に見初められます。今度は王女が王子をたすける番です。神は祈り求める者に救いを与えるといいます。
ロバの弱さが私を呼ぶ
ロバは絶対的な弱さの象徴です。弱きものとしてのロバは王女そのものなのです。なので、王女は醜さ弱さをさらけ出して働いていたために、神の使いである妖精が救いの手お差しのべたのでしょう。
たとえば、父である王様から求婚されたとき、王女に妖精が現れます。ロバの皮をかぶって逃げるよう助言するのです。おそらくその妖精は神の使いであり、亡き母でもあるのでしょう。
神は弱い者の姿となってこの世に現れるといいます。たとえば、ロバへのやさしいいたわりは、神へのいたわりなのです。なぜなら、ロバはもっとも醜い、身分の低い者のだからです。
なので、ロバの弱さ、醜さが神を呼ぶのです。神はそういうものに宿ってこの世に現れるといいます。
なので、ロバは人間のすべての行為に対して従順である一方、すべての行為をロバを通して、神は見ているのです。
聖書にこんなたとえ話があります。「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは私にしたのである」(マタイ福音書25:40)と。

まとめ
さて、今回は、ペロー童話『ロバの皮」を題材に、人間の本質について迫ってみました。
ロバを殺した王様には不幸が、ロバの皮を着てまずしい身なりとなって真っ黒になって農園で働いていた王女には、神の使いが現れます。
貧しい人とともにへりくだることは、精霊が宿るといわれています。なので、そんな王女には、それにふさわしい王子が現れるように仕向けられていたのかもしれません。
ロバはまさに謙遜の象徴です。その歩みに気を配るものは自分の命を守るのです。
その歩みに気を配る者とは、自分の無力さや自分の弱さを自覚するものです。まさにロバがその象徴のようなものです。
しかし人間は、その弱さや、無力であることを嫌います。自分が少しでも他人より強くなろうとするからです。しかしそこには決してロバのような優しさは宿りません。
なので、人間は王様のように簡単にロバを殺してしまうのです。ところが、王女はその身分をすてて、貧しいものとへりくだる身分の転身しました。
そこでようやく王女は気づいたことでしょう。「もうどうすることもできません。助けてください」という境地になって初めて人間は気づくのです。
人間の最大の苦しみは死の自覚です。つまり、自分に背負いきれないものが、自分に襲い掛かってくるということです。自己を超えた何者かがあるのです。それが真の自己であり、支えてられているという自覚なのです。
ロバが重い荷物を背負って歩く姿こそが、真の人間の姿なのかもしれません。

