アンパンマンから見た存在論~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 在らしめられて在るとは
  3. 死にさらされた極限の弱者
  4. 私の善意志か応答しない
  5. まとめ

はじめに

アンパンマンはもう誰もが知っているアニメですが、その歌の文句の中にこんな歌詞が登場します。

「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ」というフレーズです。

人は、何のために生まれ、何をして生きればいいんでしょう。そう簡単に答えは見つからないのではないでしょうか。

それこそ哲学的問題なんです。ところで、人は何のために生まれたのでしょう。実は、自分の意志で生まれたわけではないんです。

ここから哲学(存在論)の話しに入ります。アウグスティヌス(大司教)は次のように言っています。

自分は無から造られた。神が自分を存在せしめてくださらないならば、自分は無の内に消えてゆく。罪とは無へのかたむきであり、罪の告白において、私は〈無からのもの〉であることを告白するのである。しかし自分は、無ではない。〈無からのもの〉であるとともに、神によって〈らしめられているもの〉である。

アウグスティヌス=山田晶1996:13

「無からのもの」とは、何もないところから突然生まれてきたといっているのです。しかし、ただ単にこの世に投げ出されたものではなく、「在らしめられたもの」だということが非常に重要なんです。

なので、だれかに在らしめられているということだけで、何か誇りのようなものを感じませんか。

ではなぜ、在らしめられているのでしょう。突き詰めて考えると、あなたは誰かのために、何かのために、何らかの使命をもってこの世に在らしめられたということになります。

在らしめられて在るとは

アウグスティヌス著書『告白』の中で次のようにも言っています。

私は弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。意志することもできません。それどころか、何が善であるかを、知ることもできません。どうかあわれんで、私を照らしてください、みちびいてください。

アウグスティヌス=山田晶1996:40

人間はこれしかできないんです。徹底的に神の恩恵があって初めて意志することができるんです。これがキリスト教の本質にある考えです。

しかし、キリスト教の考えを取り払っても、人間の本来の在り方を言っているのではないでしょうか。

自由意思は人間であることの本質です。仮に自由意思を取り払ったとしたら、すべてはモノと化してしまいます。それでもなお、神の意志が出てくるのでしょう。

なぜなら、人間は、自由意思に基づき善悪を意志することすらできないからです。ただし、善い意志に限っては、神の意志のなかにあるというのです。では、悪い意志は自由意思の本来の在り方ということなのでしょうか。

なので、自由意志から出る善い意志は人間の意志ではなく神の意志ということになります。しかし、ここが不思議なところですが、善い意志は自己から出ていることは間違いないということです。つまり、自己意志でも内奥の根源から出ているということになります。ということは、自己の奥底には神を宿しているということになりなるのです。

アウグスティヌスは見えないもののはたらきにおいて現実において在るのが人間であるといっています。

なので、見えない何らかのはたらきがあることになります。それをとりあえず神と呼ぶしかないのかもしれません。この世に有限するもの(現実態)として存在せしめられているということです。

そこで、何のために生まれてきたかの答えの一つとして、有限であるゆえに、何らかのはたらきを示唆されているのだろうと思われます。

そのためには、何をして生きるのかは、自分のために生きることから他者のために生きるしか存在の意味がないということになります。

死にさらされた極限の弱者

「死にさらされた極限の弱者」とは人間そのものの本当の自己の姿であり、他者の姿でもあります。

なので「助けてくれ」と叫んでいる弱者中の弱者でしか自己も他者もないのです。いつも不安の中にあり、いつも死にさらされているのです。

当然、自己と他者はそこでつながっていることがわかります。ということは同じ境遇にあるのです。

だから、あんパンマンのように困っている人を見たら助けずにはおれないのです。そのように人間は見えない存在からそのように仕向けられているとも言えます。

それが「うしろめたさ」という気持ちの表れなのかもしれません。その「うしろめたさ」とは他者に直面した時に感じる感情です。

なぜなら、他者は自分と同化できない、あるいは認識できない絶対的な存在です。もし取り込めたら、モノとかしてしまうのです。取り込める者はモノでしかないのです。

あるいは、別の言い方をすれば、人間が自由である以上他者は絶対に認識できないのです。わかったと思った瞬間にもうそこにはいないのです。

では他者とどう接すればよいのか。答えは至極シンプルです。「憧れ(dèsir)」でしかないと哲学者レヴィナスはいいます。

私の善意しか応答しない

なぜ、他者は「憧れ」でしかないのでしょう。その一つの答えが、「私の善意しか応答しない」からです。なぜなら、他者は「私から切り離されたもの」だからです。

それをレヴィナスは、フランス語で「absolu(アブソリュ)」ラテン語のsolvo(切り離された)からきているといいます。

他者は「私の一部分とみなすことができないもの」なのです。なので、自分が力をふるえないものに直面しているのです。

アンパンマンがバイキンマンによくかけられる電磁波攻撃で力が萎えてしまうのはその表れなのかもしれません。

アンパンマンが自らのパンをちぎってお腹のすいた動物を助けるのは、あくまでも一方通行の善意です。決してお返しを求めたりしません。万が一お返しを要求するようなことがあれば、バイキンマンと同じく、他者は消えてなくなってしまうのです。

バイキンマンが自分の欲求を満たそうとするのは、自我を太ろうとする行為そのものです。

アンパンマンは自らのカラダの一部をちぎってまでも他者に対して善意を届けているのです。その善意に対してもちろん見返りは要求していません。

ただ万が一その善意に気が付いて、応答してくれたらこんなうれしいことはないのです。絶対に自分が支配できないものが、自分に何か好意を向けてくれたということは、天からの贈り物に匹敵するぐらいの喜びであり、奇跡なのです。

まとめ

アンパンマンを通して、人は何のために生まれ、何をして生きるのかという歌詞のフレーズを通して哲学的に考察してみました。

哲学でいう、存在の意味については他者のために生まれ、他者のために生きる生き方を考えてきました。

ただし、他者はあくまでも、絶対に取り込めない存在でしかありません。自分を太ろうとする自我は誰でもが持っているからにほかなりません。

なので、他者に対しては一方的に善意を捧げるしかその関係はなり立たないのです。それを哲学者のレヴィナスはdèsir(デジール)といいました。

アンパンマンでいえば、「優しさ」だけがとりえなんです。

「熱い心燃える、だから君はいくんだ、ほほえんで、そうだうれしいんだ、生きるよろこび、たとえ胸の傷がいたんでも、ああアンパンマン、やさしい君は、いけ!みんなの夢まもるため」

※正義や正直に生きるなど興味のある方は、拙著『心を溶かす癒しの哲学』をぜひ手に取って読んでみてください。


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