アリストテレスの最高の幸福な生活を送る術

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 知性活動こそ私の活動だ
  3. 観ることで認識するということ
  4. 観想生活がもたらす意味とは
  5. まとめ

はじめに

アリストテレスは哲学の祖であり、万学の祖としてあまりにも有名です。現代のあらゆる学問の元を作ったといわれています。

そのアリストテレスは、もっとも幸福な生活を送るためには何が必要かを追求してきた人としても有名です。

幸福な生活を送るには何が必要かを彼の著書『二コマコス倫理学』で次のように言っています。

幸福が徳に基づく活動であるとすれば、その活動とは、最もすぐれた徳に基づくものであると考えるのが、理に適っている。しかるに、最もすぐれた徳とは、最善のものの徳だろう。したがって、その最善のものが「知性(ヌース)」であるにせよ、・・・それに固有の徳に基づいて行く活動こそ、最も完全な幸福であろう。

アリストテレス=朴2004:566

つまり、彼は、徳に基づく知的活動こそ「最も完全な幸福」だととらえていたのです。

それを彼は「観想活動」と捉えています。「観想」とは「観る」こと、見つめること、眺めることに留まらず、考察、研究に至る広がりを見せ、原語「テオーリア」は「理論」ともいわれているのです。

「考える」知的活動こそが最もすぐれた活動だと捉え、中でも知恵に基づく活動こそが最も快いといっています。

要は哲学することこそが、最も心地よい徳に基づく活動だということです。

知性の活動こそ最も私の活動だ

人間の知性欲求を追求することこそが、自己の証であり、考えることこそが生きていることだとアリストテレスはいっています。

その活動こそが「観想生活」そのものであり、知性を磨くことこそが幸福(最高善)なのです。

神学者トマス・アクィナスはさらにそれを発展させ、不完全な人間が完成に向けて取り組むことこそ生きる意味であるといっているのです。

人間はわからないことだらけであり、一歩でも二歩でもわかることを増やしていくことこそが、知性本性的欲求にむすびつくのです。

人間は生涯かけて知恵を学ばなければならず、完成に一歩でも近づくことこそが宿命なのだと、先のトマスはいっています。

アリストテレスにあって幸福は、善の追求で在り、徳の獲得なのです。したがって、善の概念と徳の概念は深く結びついていることがわかります。

たとえば、自分にとっての善いものに囲まれて生活していることこそが「観想生活」なのです。なので、朝は日の光に囲まれ、深呼吸して目が覚めるなど心地よさ発見が善であり、徳なのです。

したがって、すべての生活に善いものを追求することこそが仕事にも結び付くのです。たとえば、善い食べ物を作ることや、善い車づくりの追究なのは、その達成感こそ、獲得であり、獲徳なのです。

たとえば、医者は患者の健康のために処置を施し、厩務きゅうむいん員は馬の勝利のために日々馬の世話を施しているのです。その行為の中に、必ず善の追求がありそのことこそが徳と結びついているのです。

観ることで認識するということ

アリストテレスの『形而上学けいじじょうがく』冒頭に、知性本性的欲求こそが、人間に備わったもっとも人間らしいことであるといっています。

中でも、知ることはまずモノを観ることからはじまり、そのもが何であるかが分かった時点でようやく認識することにつながるということです。

たとえば、ベットメーキングだとか、食堂で皿洗いするだとかは、コツというものがわかる瞬間がその都度あります。まじめにやっていれば、仕事とはそういうものなのです。

ただそれだけでは終わりません。知性本性的欲求がはたらくからこそ、認識まで到達し、仕事の面白みがわかり、やりがいや生きがいにまでつながっていることになるのです。

それが、善であり、徳につながっているんです。つまり、善く生きることこそが幸福(最高善)の端緒ということになるのです。

なので、必ずしもアリストテレスのいう知的好奇心は学問だけではなく、日常のあらゆることにつながっており、それを善と徳に結び付けて考えたとき、はじめて、幸福感に包まれていることに気づくんではないでしょうか。

観想生活がもたらす意味とは

「知性の活動こそ〈私〉の活動である」というのがアリストテレスの基本的考え方でもあります。

つまり、私の存在証明とは知性の活動だということです。

なので、知性の何らかの介入がなければ、その行為は出来事になり下がってしまうということになります。

たとえば、対岸の火事と一緒で、単なる出来事であり他人事なのです。ニュースで飛び込んでくる事件なのは特にそうなのです。

しかし、一旦、私のかかわりがあることになると、途端に私事になり、知性の介入によって、悩み苦しむことになるのです。

ところで、アリストテレスのいう「知性に基づく生活」がなぜ「最も快い」のでしょうか。

その答えは、「私」にあるのです。「知性に基づく生活」こそ、「私の活動」だからです。しかも、彼は「探求の生活こそ「最も幸福な生活」だとしたのです。

ただ、彼の主張はそれだけにとらわりません。「観る」(テオーレイン)生活なのです。テオーレインはセオリー(theory)の語源で、「理論や仮設、定説」という意味でもあるんです。

なので、定説といわれる生活の様々な現象を、「常に省り観る」ことこそが「最も幸福な生活」につながっていたのであろうと思われます。

いわば、観想生活とは哲学するという行為そのものだったともいえるし、ただそれだけでなく、善く生きる行為そのもので徳を積むことと重なってはじめて〈私〉の幸福につながったともいえるのです。

まとめ

かくいう私も、なぜブログを書くかは、知性活動こそが書くことと結びつき、やがて、幸福感につながっているからなんです。

その答えこそ、〈私〉の活動だからです。主体的能動的活動こそが〈私〉の自覚なんです。なので、脳に心地よい刺激につながっていることになるのです。

さて、哲学に興味を持たれた方は、もう少し学んでみたい方は、私の著書を紹介します。ぜひ一読してください。

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