アウグスティヌス『告白』から見える人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

本来人間は弱いものです。当然引きこもりの人も出てきます。それは今に始まったわけではありません。なぜなら、神のように人間は完ぺきではないからです。

かの大司教アウグスティヌスでさえ次のような言葉を残しているのです。

私は弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。意志することもできません。それどころか、何が善であるかも、知ることもできません。どうかあわれんで、私を照らしてください、みちびいてください。

アウグスティヌス=山田晶1996:40

アウグスティヌスの名著『告白』は単なる自分の真実を告白するだけではありませんでした。何のために自分は存在するのかをつき詰めて考えたのです。

それによると、単に人間はこの世に存在するだけでなく、「らしめられてる」ということに行きつきます。在らしめられるとは何らかの使命を帯びているということが非常に重要です。

しかも、もっと重要なのは、「自分のみじめさを知れ」という点です。それも、地獄に落ちなければ見えない世界があるとまでいうのです。

徹底的に打ちのめされた「ヨブ」のごとき目に合わなければ、本当の存在の意味が見えません。なので、最も弱い自分に行きつくまで悟らなければ、本当の存在する意味が分からないのです。

ペラギウス論争

今から2千年近く前の時代。ローマが最も栄え、あらゆる人がローマに集まっていたころの話です。ペラギウスもブリタニアからローマに来た修道僧です。

アウグスティヌスもカルタゴからローマに行きつき、大司教にまで上り詰め、ペラギウスも彼を慕ってローマに来ました。

この論争の発端は、『告白』から来ています。すべて人間は神にゆだねていいのか、主体性は、道徳的義務はどこに行ったのかにペラギウスはこだわりました。

つまり、人間の自由意思はあるのかということです。アウグスティヌスも罪の原因は自由意思にあるといっているので、この件に関しては同じことをいっています。

ではなぜ、2人の間に溝があるのでしょう。悪はあくまでも人間の自由意志からであるが、善は神の意志が働いているのだとアウグスティヌスは考えます。

さらにアウグスティヌスの重要な点は、人間は無から造られたものである限り、放っておけば無に傾くために、滅びを意志するというのです。なので、罪の主体は人間なのです。

善の意志は神の哀れみ

では、善の意志はどこから来るのでしょう。意志は悪ばかりでなく善をも意志するのではないかとペラギウスは考えます。しかし、アウグスティヌスは、善は神の哀れみから来ているといいます。

あくまでの罪の主体は人間であり、そこから逃れることはできません。なので、自分の力ではいかなる善も意志出来ず、神のよって意志せしめられているのです。

徹底的に根源的に神の意志が先立ちます。それだけ人間は弱いということです。アウグスティヌスの根底に流れているのは「人間のみじめさ」です。

みじめさを知ることで、神の哀れみが初めて理解できるというのです。しかし、懺悔はそう簡単にだれでもできるものではありません。自分の過ちを素直に認めることほど苦しいことはないからです。

自らの心に問いかけてみてください。弱さをさらけ出すとは、罪を認めるとは相当の覚悟がいります。なぜなら、人間は自分の罪を認めたくないからです。それだけ欲は頑なで、こころは閉ざされているのです。

それをこじ開けるには、自らの自由意志の力では到底できるものではありません。なぜなら、人間はどこまでいっても「いいカッコしい」だからです。

在らしめて在るもの

そのためには、自ら「無からの者」であることを自覚しなければなりません。人間は、無から無へと帰る者です。ただ、それだけではなく、「在らしめられて在るもの」ということが重要です。

悪をも善をも為す人間は、罪を告白するだけでは足りません。同時に善も告白しなければならない。ただ善は、誇張であっては単なる自慢になり下がります。そうでなく、善は神の力をかりている以上、神からの恵みに対して感謝を告白せねばならないのです。

それが「在らしめられて在る者」の責任です。したがって、善は決して自分の力でないことを肝に銘じなければならず、もし自分の力に頼れば、傲慢の何物でもないからなのです。

しかもなぜ「みじめさ」を理解しなければならないのでしょう。それには、自分の弱さを知らなければなりません。人間の弱さをさらけ出すことで、いかに自分は傲慢であるかを自覚することになるのです。

ヨブをみてください。傲慢を自覚するまで徹底的に神は天罰を与え続けています。何が傲慢かを理解することは人間にはできないかもしれません。それだけ、傲慢から脱出することは困難だからです。

なぜなら、生きること自体が傲慢そのものだからです。人間の欲求の最たるものが食欲です。その食欲はいやでも力によって他者から奪い取るという力学が働きます。

なので生きること自体に、常に傲慢さを自制することが問われるのです。そのためには、謙虚さと感謝を忘れてはなりません。自分の力に頼るものほど傲慢になるからです。

おわりに

アウグスティヌスの『告白』を通して、善と悪について考えてみました。人はいかに自分は無知で傲慢であるかを知りません。と同時に、「みじめな」自分に対して、なお、見捨てずに生かされている自分がいることです。

告白することは、自分のみじめさをさらけ出すことだけではありません。なので、そう簡単にできるものではないのです。なぜなら、人間のみにくさは誰でも持っているにもかかわらず、自分から素直に認める者はいないからです。

したがって、この告白は弁明でも誇るためでもありません。ではなぜアウグスティヌスは『告白』を著したのか。それは、人間がいかに「みじめ」なものなのかを知ってもらうためだったのだろうと想像できます。

ところで、だれでもどんな本を書くにも、その行為自体が、真実を書かなければならない宿命を背負っています。何と人間はみじめで傲慢であるかを書く作業でもあるのです。しかし、現実はそのような著書がどれほどあるのでしょう。

ものを書くということは、自分の命を削ってまでも自分の真実をさらけ出す作業です。つまり、神の前に向かって「みじめさ」をさらけ出すことでもあるのです。

たとえば、裁判の宣誓では、神に誓って嘘、偽りがないかを誓うものです。アウグスティヌスの『告白』もまた神に向かっての宣誓だったのです。

これほどまでにみじめな自分でも、なお、生かされて在ることに感謝していることが重要なのです。

「tolle Legol」(聖書を取って読みなさい)とどこからともなく聞こえた神の声は、「一者そのものになり一者を救え」とアウグスティヌスは理解しました。それは最も恵まれないものの立場に立って行動せよということなのです。

 

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