ブリューゲル『バベルの塔』から垣間見る人間の本質=超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

『バベルの塔』は16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルの作品です。この作品は旧約聖書「創世記」にあるバベルの塔から来ています。

その内容は人間の自らの力(アレテー)を信じたばかりに、天に達するまでの、建造物を作ったとされています。

しかし、人間の傲慢さが神の怒りに触れ、巨大建造物は中止を余儀なくされます。

なので、天にも届く神の領域まで手を伸ばそうとした建物は、崩壊してしまったという、空想的で実現不可能な建物だったのです。

ところで、アレテーに生きる生き方とは、アリストテレスが唱えた生き方です。それは、現代的に言えば、自己実現ということになります。

そもそも幸福になるためには、各人に備わった固有の能力を発揮した時に成立するといわれています。それがアレテーに生きる生き方です。

人間には、生まれ持った能力があり、当然、そこに能力の差が生まれます。能力の高い者が能力の低い者を支配するという構図が生まれるのです。

『バベルの塔』は、まさに人間の能力の限界を目指して昇りつめた先のできごとでした。神に近ずこうと天を目指した人間は、意思疎通のとれないもの同士がちりじりに去っていくという現実の物語だったのです。

形相質料構造とは

アリストテレスはモノ(自然界にあるすべてのモノ)は質料と形相からなるという存在論を打ち出しています。すべてのモノは何であるか(形相)という働きによって存在するという考え方です。

たとえば、机の上にあるハサミは鉄などの金属(質料)ですが、紙などを切るという働き(形相)によって、形作られ、この世界に存在しています。

人間の場合は、少し違います。質量は肉体ですが、形相はそのものがなんであるかという、単なるアレテー(役に立つという意味での)のためにあるのではないのです。

幸福(最高善)を目指して存在するという点が、単なる質料として、あるいは形相としての存在を超えて存在しているということです。

それを、アウグスティヌスは、「無からのものである」と同時に「在らしめられて在るもの」であるといっています。そのことに関して、トマス・アクィナスは神から何らかの使命を帯びて存在していることを指摘します。

私たちの存在は、ただ存在しているだけではなく、他者のために存在しているのだという、何らかの使命を授かって生まれてきているのです。

なので、無からのものであると同時に「在らしめられて在るもの」であるのです。

バベルの塔の意味するもの

バベルの塔は神の領域である天を目指して建設されたものです。はたして、天の国はどこにあるのでしょう。決して空高く宇宙に届くような場所ではありません。

天の国とは、神の働きの及ぶところであり、人間と一体となって働くということです。では、神の国の住人とは誰のことでしょう。それは、その働きを自覚的に担った人のことです。

まさに、愛の働きの人であり、具体的には、最も貧しい者、虐げられた者、小さくされた者たちに救いの手を差し伸べた人のことです。

かけがえのない人とは、そのように小さくされたものたちのことであり、決して救いの手を差し伸べた人ではありません。

ただ、そのようにかけがえのない人とかかわりの中に入った人は、かけがえのない人とかかわりを持った人だということです。

したがって、このバベルの塔は欲にまみれた人間の傲慢に基づくもので、天の国とは最も権力のあるものと勘違いした当時の王の傲慢の為せるわざだったのでしょう。

究極の神秘

究極の神秘とは、バベルの塔でもなく、人間の要望の果てにできた巨大建造物でもありません。我々、人間がここに存在していることこそが究極の神秘といわざるを得ません。

我々が生きているということが当たり前のように感じていたら大きな間違いです。なぜなら、自分の存在は偶然の産物だからです。

その偶然の産物である自分は、ただ存在しているわけではありません。無からのものであるだけでなく「在らしめられて在るもの」であることを決して忘れてはいけません。

それは、神からの贈り物だということです。なので、他者に対して仕える人であれという使命を帯びているのです。それが神が人間をこの世に贈ったことの意味です。

それも、最も虐げられ、助けてくれと呼び掛けている小さき者たちの叫びを聞くことです。そういった無力の者のために在らしめられて在るものです。

「なぜなら、我々は神の中で生きている。そして、動いている。そして存在している」(en autôi gar zômen kai kinoumetha kai esmen)(使徒行伝17章18

天(神)は雲の上でもなく、すぐそばにいるということです。それも、我々の中にということを「福音書(使徒行伝)」では言っているのです。

空の彼方に神の国はあるのでなく、今、ここに、決して遠い過去でもなく、やがて、到来する未来でもなく、神はここにいるというのです。

おわりに

ブリューゲル『バベルの塔』を通して人間の本質について考えてきました。人間ほど欲深く、傲慢な者はいません。それが証拠に、天にまで昇りつめようとしたのが『バベルの塔』です。

しかし、この計画は、神の怒りに触れて建設半ばで崩壊してしまいました。人間は神のように完全でなく、欠陥を抱えていることを肝に銘じなければなりません。

その欠陥こそ、傲慢や自惚れによる力の支配です。人間は力をつければつけるほど、高ぶる者になり下がるのです。そのようなものこそ、神による導き手が必要なのです。

なぜなら、人間は「在らしめられて在るもの」だからです。それは、神による何らかの使命を帯びて存在せしめられているためです。

その使命とは、「かけがえのない人ともにあれ」ということであり、かけがえのない人とは、貧しいものや虐げられた最も小さくされた者のことです。

その様な人とともにへりくだることこそが、「かけがえのないものとともにあれ」ということです。そうすることで、自身もかけがえのないものとなることができるのです。

『バベルの塔』はそのような人間の傲慢の戒めです。正しい人の大路は、貧しいものとともにへりくだる者に自ずと訪れます。

 

 

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