『チリンの鈴』にみる人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

『チリンの鈴』やなせたかし原作の絵本であり、アニメーション映画にもなりました。アンパンマンの作者としてあまりにも有名ですが、この絵本は、それに比べて内容が難しかったのか、それほど大きな反響にはなりませんでした。

ただし、「ちりんの鈴」に込められた梁瀬さん独自の人間観が隠されているのかもしれません。というのも、親の仇を打つために子羊はたくましく生き抜き、とうとうオオカミを殺し、仇は達成されてしまうのです。

しかし、結局殺し合いでしかないという戦争観に通じるものがあり、最後は孤独のうちに死ぬしかなかったのでしょう。

あれほどまでに、憎んでいたオオカミだったのですが、いざ殺してしまうと、父親のように慕っていたことに気づくのです。それというのも、オオカミから強くたくましく育てられいつしか憎しみが消え、父親のように慕っていることに気づいたのです。

しかし、いざオオカミに命令されたまま羊小屋を襲い皆殺しにしようと思っていたのも事実です。子羊をかばう母羊を目の前にして、自分の幼いころと同じような体験がよみがえってきます。

今の自分は、オオカミの様に強くたくましい羊となり誰も恐れる者はいないほどに成長したのでした。母羊を殺すのはわけのないことです。その光景を見たとたん、自分の母親を殺したオオカミへの憎悪がフラッシュバックしてしまいます。

殺し殺されるという関係は、生き残った者はむなしさだけが残るだけです。親の敵と思っていた正義感はいざ達成されると、そこには罪悪感だけが残るだけです。

他者に肯定を贈る

さて、このオオカミと子羊の関係は人間同士の関係も同じではないでしょうか。第二次大戦で中国で実際に起こった話が「あんぱん」のドラマでも出てきます。日本兵に子どもの見ている前でその母親が殺されるというものです。

その子は、その日本兵にかわいがられるのですが、しかし、拳銃を離さず持ち、隙あらば殺そうと狙っていたのです。とうとう、退却命令が出たその日に兵隊を、これが最後とばかり撃ち殺してしまいます。

ところで、他者との関係とは何だと思いますか。結論から言えば、他者との関わりがあるからこそ、自分の存在があるということです。仮に他者との関係が無くなれば、自分は無に帰する存在でしかありません。

そうです。存在とは他者に存在を贈ることで、初めて自己の存在が肯定されるのです。初めから自己などというのはないのです。

人とのかかわりの中で、自分がかけがえのない人間になるかどうか、自分の存在に意味があるのかが決まってくるのです。

チリンもオオカミはかけがえのない人だったのでしょう。なぜなら厳しきも苦楽を共にし、「存在の肯定」が育まれたからにほかなりません。

つまり、逆に考えれば、人生はかけがえのない人に出会えるかどうかで決まってくるということです。ではかけがえのない人とはどういう人でしょうか。

かけがえのない人との出会い

しかし、一般的に考えるかけがえのない人とは、頭が良くてかっこよく、社会的地位の高い人というようなイメージを浮かべるのではないでしょうか。

つまり、これらはすべて「強さ」にほかなりません。人間は金持ちであるとか、そういう人にみな憧れます。それは存在を強くしたいからにほかなりません。

自分の力を強くして人を引き付けようとする本能が働くからです。つまり人間は本質的にエゴイストだからです。エゴイストは自分のことばかり考え、自分に特になることばかり考えている人です。

しかし、本当のかけがえのない人とはそういう人でしょうか。そういう人だと思って近づいてみると、支配する人と支配される人の関係以外にないことがわかるのです。企業はみな本質的には一緒です。

力が無くなればゴミのように捨てられるだけです。チリンもまさにオオカミとの関係は本質的に同じです。なので、本当の関係でみれば、かけがえのない人ではないのです。

しかし、ちりんにとってかけがえのない人とは殺された母親だったのですが、頼れるのはオオカミだけだったのです。だけど、ちりんは幼いために大きな失敗を犯します。力による支配と被支配の関係にためです。

本当のかけがえのない人との関係は、羊小屋にいる仲間たちだったのです。弱いもの同士が助け合っている姿こそが本当のかけがえのない人との関係に入れるのです。

我をわすれてその人に尽くす

本当のかけがえのない人との関係とは、「我をわすれてその人に尽くす」以外にありません。自分を忘れてしまう時にその人は本当の人間になるからです。

本当にかけがえのない人とはそういう人のことです。つまり、弱っている人、助けを求めている人、挫折した人とか助けを求めている人に関わった時に人間は本当の交わりに入れるのです。

ちりんがオオカミを殺した後に、羊小屋に戻ってもみな怖がるばかりで、おびえて後ろに身を引く以外にないのです。それを悟ったチリンは、自分が育った山に帰る以外になかったのでしょう。

しかし、山に住む他の動物たちも、誰一人として近づく者はいませんでした。孤独のうちに大雪がつづく特別な日に姿が見えなくなりました。

私たちが住む人間社会の現実を見事に映し出しているようにみえませんか。親をオオカミに殺されたことで、チリンはオオカミのように強くなって誰にも負けないものになろうとしたのです、

人間も同じように、社会的地位とか才能とか容姿などすべて「力」です。「力」は支配するものです。まさにオオカミに育ったチリンと同じです。

チリンは弱った人を助けるのではなく、強くなることだけを考えて生きてきました。強い親方の言うとおりに命令されていたのです。

森を「力」で支配することによって、弱いものはいつも警戒し、おびえて暮らしていたのです。なので、知らないうちに誰からも恐れられ、孤独のうちに死んでいくしかなかったのです。

実は孤独をなくすためには、我を忘れて人に尽くす以外にないのです。オオカミも強くなって弱いものを守ることができれば、みんなも頼ったに違いないのです。

おわりに

やなせたかしの絵本『チリン』を通して人間の本質を考えてきました。強いオオカミに育てられ、森の支配者までになったチリンは「力」で支配したのです。

弱い動物はチリンに関わるものは誰もいません。当然孤独のうちにさみしさを抱え込んで死んでいったのでしょう。人間社会も全く同じです。本当に人と交わるためには、自分自身が裸にならなくてはならないのです。

社会的地位や財産などはすべて「力」による支配が働きます。こういう人には誰も交わる者はいません。本当に交わることができるのは、かけがえのないもの同士なのです。

弱くて力のないものは、助け合って生きていく以外に生きる術がないのです。そういう弱くて力のないものは孤独を脱し、本当の幸福を知っている人なのです。

羊はその象徴です。聖書では羊は「美しいもの」「善いもの」のシンボルです。「力」による支配ではなく、「弱さ」による助け合いこそが幸福につながるのではないでしょうか。

 

 

 

 

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