はじめに
ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet1819~1877)は19世紀に活躍した写実主義の代表的画家です。民衆の実際の生活を描いた『石割る人』は特に有名です。
なぜなら、この絵は、第2次世界大戦のドレスデン爆撃で焼失した作品のため、それだけ貴重な作品といえるからです。
この作品は、道端で黙々と石を砕く人夫たちの姿が徹底した写実主義により描き出されています。
この絵を良く眺めてみれば、高齢の人夫とその息子なのか、働くには若い人夫の2人が対照的に並んでいて、悲惨な現実を強調しています。
当時の理想主義(ロマン主義)の主流絵画から、現実の過酷さをを描くことで、その社会に置かれた労働者たちをありのままに描いたのです。
このリアリズムは、説得力を増すものです。重労働にあえぐ生々しく描いたこの作品は、19世紀の激動の時代を強調しています。
この時代、農民は生活苦にのため、石割りなどの最下層の仕事をする以外に生きていくことができませんでした。
しかも、農村や都市労働者からあふれ出された、老人や少年はその最たるものでした。なので、この『石割る人』は老人と少年がモデルになっています。
目次
- はじめに
- 苦しみという門
- 存在への贈り物
- 人間はすべて罪人である
- おわりに
苦しみという門
この時代19世紀のヨーロッパは、産業革命や不況、低賃金、劣悪な労働環境など厳しい状況に置かれていました。
低所得、不安定雇用、過密な不衛生的スラム生活が待ち受けていたのです。
そんな中で、あふれ出た老人子どもの働く場は、石割という最も下劣で重労働がまっていたのです。
ただ、この時代は、王政に対して市民が惹起し、ブルジョアと市民が対立し、労働者階級と産業資本家を軸とする社会的対立へと発展していくのです。
それが有名なパリ2月革命であり、7月革命へと続き、「人間は自由である」ことを自覚したのです。そのため、生き方を自分自身が選択し、けっして奴隷化してはならないという権利に目覚めていきました。
しかしその反動は、まさに「苦しみという門」だったのです。社会が混乱する中で、最も弱い子供や老人にそのしわ寄せが着たのです。
ゆえに、生きていくためには「石割り人」になるしか手はなく、それこそ低賃金で劣悪な環境に放り出されていたのです。
存在への贈り物
人間が自然とともに存在するということは、太陽が照らすときもあれば、嵐が吹き荒れるときもあるということです。
陽光とそよ風が存在への贈り物であると同様に、暗闇と嵐もまた存在の贈り物です。なので、イエスでさえ誤解と挫折と侮辱の暗闇の中に突き落とされて死んだのです。
したがってこの苦しみもまたひたすら耐えることのうちにあることも事実であり、永遠に解けない謎として包み込んでいることも確かなのです。
なぜなら、人間であるとは、神のように全能でなく、欠陥のあるものとして、わからないままこの世に存在しているにすぎないのです。
したがって、旧約聖書の「ヨブ記」のように、信仰心厚く平和に暮らしていたヨブの身に、襲い掛かる不幸は決して人間には理解できない範疇なのです。
もしわかるとすれば、天変地異と同じく「ヨブは神の無償の行為の世界」の中に生きているということに過ぎないのです。
つまり、人間は神の無償の贈り物に過ぎないということです。神の愛はあくまでも一方通行の善意なのです。したがって、善行は一方通行のものでなければならないのです。
人間は神の「イマゴー」(imago似姿)なのです。神が人間に一方的に与えた神の似姿として、自然世界に放り出されたにすぎません。
なので、ヨブのように人間が神に対して申し開きなどする術はありません。あくまでも一方通行の贈与でしかないのです。
人間はすべて罪人である
この『石を割る人』の絵は、まるでギリシャ時代の奴隷労働と何ら変わりがありません。人権主義が横行する時代になったとしても、労働の本質は何ら変わることがないのです。
まじめに働く以外に決して対価は払われないことの戒めなのかもしれません。「働くもの食うべからず」(テサロニケの信徒への手紙)はパウロ書簡に含まれる一書です。
しかし、ヨブのようにまじめに働く敬虔なものでさえ神はその傲慢さを理解するまで許しませんでした。「人間である」という本当の意味は、大きな過ちを犯すものであるということの自覚です。
そのことがわかるまでには、ヨブのように、大変な努力を強いられなければならないのです。
ヨハネ福音書に次のような一説があります。
あなたたちの中で
罪を犯したことのない者が
この女に、まず石を投げなさい
聖書の中に、姦通罪で捕らえられた女をめぐって、主イエスと律法学者たちが対決する場面があります。旧約の律法では、姦通罪は石打の死刑にされることになっていました。その時イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」といいました。すると年長者から始まって一人また一人と立ち去ったといわれています。
おわりに
クールベが活躍した19世紀は、産業革命や市民革命によって社会が大きく変化した時代でした。絵画もまた今までの理想主義的宗教絵画から労働者階級をそのまま描写するという現実主義の絵画が出てきました。
その代表的「ありのままに描く」という信念のもとに「視覚的真実の記録」をクールベは追求し続けたの言えるでしょう。
そのありのままを描くということで、人間の善行だけを見るのではなく、罪人であるという罪深さに目をむくことの意味を訴えたかったのかもしれません。
この「石を割る人」から読み取れる、人間の労働に対する神聖さと、一方で、それを見る人たちの人間にたいする本当の罪人性をだれが気づくでしょうか。
人の見る目によって、絵画はその意味が独り歩きすると同時に、本当の人間の偽りのない姿を、丁寧に描写することで、逆にすさまじいまでの人間の醜さが浮き彫りにされてくるのではないでしょうか。
真実は、「貧しい者は無力である」という一点です。守るべき財産も才能も社会的地位もありません。裸の自己を露出して生きていくほかはないのです。それがこの『石を割る人』の真実です。
貧しい者は、容易に傷つけられ、場合によっては孤独死の中に突き落とされていまうかもしれません。人間の本当の姿とはそういう罪人性を背負って生きているということです。
それだけ弱い自分をさらけ出して生きなければならないのが、この『石を割る人』であり、すべての人に共通する人間の弱さです。それは今日の社会でも何ら変わらないばかりか増々複雑に絡み合っているのです。