目次
- はじめに
- 人間は自己でさえない
- 「死の勝利」がもたらすもの
- 絶対的他者について
- おわりに
はじめに
絵画『死の勝利』(Il trionfo della morte)はブリューゲル(Pieter Bruegel the Elder 1525/30-1569)の作です。彼は、フランドル地方の農民生活や習俗を描いた作家として、生き生きとした作品を多数残しています。
特にこの『死の勝利』は、当時流行したペストがヨーロッパ全土を襲い、あらゆる階層の人もなすすべもなく死んでいったのです。
ゆえに、骸骨姿の死神があらゆる階層の生者へと襲い掛かり、容赦なく蹂躙するというもので、恐怖や壮絶さにあふれています。
しかし、この絵は、「メメント・モリ」(死を記憶せよ)という風刺だけでなく、イタリアのフィレンツェから始まるルネサンス運動の大きなうねりの中で、人間中心の復活ともとれる意味も込められていたのです。
なので、ブリューゲルの絵画は農民を数多く描き、今までの神をたたえる宮廷画家からの脱却に大きな影響を与えたともいわれています。
特にこの『死の勝利』は、人間にはどうにもならない他者に直面していることを意味しています。病魔が襲い掛かる苦しみ自体がもうどうにもならない他者なのです。
自分の背負いきれないものが襲い掛かってくるのです。他者とはいずれにしても自分の中に同化できないものですから、自己自身が自己ではなかったということが人間にわかるということなのです。
人間は自己でさえない
「死」とは生まれた瞬間から背負っている根源のようなものです。そういう意味で自分がコントロールできないものです。なので、自己の中にある他者でもあります。
たとえば、病気になって苦しむとか、地震に遭遇した災いだとか、当然交通事故で足を切断しなければならなくなったなどの不幸は、自己満足の安らぎから引きずり出すものです。
つまり、自己が自己自身の内に存在根拠をもたないこと、自己が支配できない他者に直面しているということです。その最大の他者が「死」なのです。
「死」を背負って生きているという二重の罪人でもあるのです。その一つは傲慢という自我です。これは日常的に生にへばりついているものなので生きているうちは取れません。具体的には食欲などは最大の我執です。
自己は自己でさえないということは、まったくの受動性ということです。しかも二重の意味で受動性なのです。1つは誕生という受動性、もう一つは他者から受ける強迫性(例えば「死」)です。
哲学者レヴィナスはそれを二重の受動性と呼びました。同時代の哲学者ハイデガーは誕生の受動性を、この世に投げられたという意味で「被投性」と呼びました。ただ、ハイデガーは他者の存在に対する受動性には至っていません。
彼は、あくまでも主体性にこだわりぬき、人間が存在することを現存在と言い換えて、時間軸で存在論を展開しています。なので、受動性を欠いているため、我執からは一歩も抜け出せななかったのです。
「死の勝利」がもたらすもの
かつてスペインから始まった死の行進は、ヨーロッパ全土に広がりました。当時、ペスト菌は人の目に見えず、なすすべもなく次々に死んでいく様は、まさにこの絵のごとく、死神という骸骨軍が襲い掛かっている様だったのでしょう。
人間には先のことは誰もわかりません。最近起こったコロナ禍でも14世紀に起こったペストの再来ともいわれています。これだけ文明が進んでも、さらに進化した病原菌がこれからも確実に起こりうるのです。
かりに人間が存在することは、奇跡的なことであり、神秘的なことであるとするならば、神の働きとともに存在することでもあります。なぜなら神の働きこそが生きているあかしだからです。しかし、根底に死があるとすれば、生は死とともに存在し、「死の勝利」は「生の勝利」でもあるはずです。
なので、神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底だからです。お前の根底には、生も死も同じように働き、すべての業を「なぜ」という問いなしに為さなければならないのです。
お前の業を天国のために、あるいは神のために為す間は、「死の勝利」となるでしょう。しかし、この世の地獄を味わった人とともにあるならば、「生の勝利」となるでしょう。
「お前はなぜ生きるのか」と生涯問い続けても、答えはけっして見つかりません。。結局、生きるから生きるとしか答えようがないのです。なぜなら、自身の根底から生きているからです。まったくの受動性であり、神の手の内にあるからです。
絶対的他者について
絶対的他者とは外的なもの(un être absolument extèrieur)に接近するということです。身近なものでは、自分以外の他人です。究極的には死であり神でもあります。
なので、他人とは、私と他人との間には渡ることのできない深淵があるということです。しかし、対象がモノであれば、認識され所有物にとなり、餌食となるのです。
しかし他者は、同一化の埒外にあり、絶対に認識されない、絶対的な抵抗のうちに現れるのです。かれは私のすべての力に対抗する存在です。
他者は、私の力のふるえない、全く抵抗できない、力を発揮できないほどに奪い取られてしまうような関係でしかありません。
「死の勝利」とは、他者に対して力をふるえない、力を発揮できないばかりでなく、目に見えないものに対して何も抵抗できないで人々に対する警鐘なのです。
この時代(14世紀ヨーロッパ)に有効な治療もなく、武力や富も意味をなさず、死を待つのみであったことは、神にすがるしかなかったのです。
このような目に見えない死への恐怖は、ある意味では絶対的他者に対する経験だったといえるでしょう。他者はすでに自我の把握を超えるもの、対象として客観化されえないものです。
おわりに
以上述べた通り、「死の勝利」とは、我々は見知らぬものに取り込まれて生きているということです。日常的には勝手を知った世界の中で生きていますが、しかし、ひとたびペストやコロナが猛威をふるえば立ちどころに世界は一変します。
それを私たちはつい最近起こったパンデミック(コロナ禍)で、改めて知る羽目になったのです。
人間の本質が、傷つき易さ(vulnérabilité)、受動性(passivité)、死すべき者(Sein zum Tode)であるという点です。
だから、生きるということは、始めから、本質的に苦しむことです。生きるとは死に向かって進んでいきことです。我々は時間とともに弱くなって、老化して、病気になって、最後に死ぬのです。まさに「死の勝利」です。
この絵の「死の勝利」は、人間すべてに襲い掛かる、喪失と老化と病気という出来事が一挙に襲った姿なのです。いわば、どうにもならない他者に直面しているのです。
「死の勝利」は誰にでも起こりうる苦しみとして、みんなの苦しみでもあります。他者の苦しみが自分の苦しみでもあるという連帯の可能性を示しています。
「死の勝利」は超越者の呼びかけでもあります。我々人間は死ぬべきものであるという根源からの問いかけでもあるのです。