オレノ=ドーミエ『三等列車』から見える人間の本当~超哲学一歩前~

哲学・倫理

はじめに

オレノ=ドーミエHonore Daumier(1808~1879)は19世紀に活躍したフランス画家です。

写実主義のこの画家は、都会の労働者や庶民の生活を描くとともに、当時のパリの政治に対する鋭く批判する風刺画を描いた人で有名です。

ドーミエはマルセイユの下町に生まれ、子どもの時にパリに父親とともに移り住んでいます。生活に苦労を重ねながらも、新聞雑誌の挿絵画家として彼の絵は才能を開花させていきます。

彼の絵は貧しい人とともにあり、人物の特徴を思い切り誇張しながら、共感と鋭い批判精神に支えられていました。

『三等列車』は当時の様子が的確に描かれていました。この時代、客車には等級が設けられており、労働者階級は三等車を利用しました。なのですし詰めの状態で、座る人々の目には活気は感じられません。

しかし、人間に対する共感を抱き続けたドーミエは貧しい人々の尊顔を探究し、光を当てることに自らの使命さえ感じていたのです。

パリの当時の庶民の生活は、産業革命によって大きく様変わりし、ようやく庶民にも手の届く商品が増えてきました。

そのため、蒸気機関車によって、農民や移民の者にとっては、都会へ働きに出ることに大きく貢献したのです。

当時のパリは、工業化が急速に進み、周辺の貧民農家や移民などとともに流入する人々で都会は、貧民や孤児であふれかえっていました。

仕事を求めて都市へやってきた人々は、低賃金や長時間労働で、不衛生極まりない貧民窟でひしめき合って生活していたのです。

目次

  • はじめに
  • 3等列車からの希望
  • 人間の偶然性
  • 愛を受けうるもの
  • おわりに

三等車からの希望

産業革命を経て、ピューリタン革命、フランス革命によって、ようやくパリにも人権が芽生えていたころです。

今は、貧民窟で奴隷のような生活を送ってはいるが、これからの人は、自分の努力次第で豊かになれるという希望の光が見えてきた時代でもあったのでしょう。

もう一度『三等列車』の絵を見れば、ぎゅうぎゅう詰めの車内は、別々に虚空に視線を漂わせながら、他人への関心を寄せるものは誰もいません。

しかしながら、幼児を抱く母親や眠っている子どもが前面に描いている意味は、ようやく、見えてきた将来の光に未来うを託しているのです。

バケットを持った年老いた女、乳飲み子を抱えた母親、そしてぐっすり眠る少年とまるで人生の縮図のように並んでいます。

少し前までは奴隷のように虐げられた年老いた女、乳飲み子を抱えた女も貧困や不平等に苦しんだ時代でした。

しかし、産業革命や都市化によって社会や文化も大きく変わろうとしているのです。どんな人生観を持つか、どんな職業を選ぶか、王様も皇帝も農民もみな同じ人間です。

フランスはこの激動の時代を経て、市民や労働者たちは自由や平等や正義を求めて闘いました。同時に貧困や不平等に苦しんでいたのです。

そこにようやく、新聞や雑誌などのジャーナリズムが発展し、社会への批判や風刺が盛んになりました。その風刺画に盛んに投稿したのがフーリエだったのです。

人間の偶然性

ところで、人間にはみな生まれた時の生存条件に違いがあります。ドーミエの絵画を見るまでもなく、それぞれが背負っている運命にはじめから違いがあるのです。

そういう意味では、「自分の存在は偶然」であり、三等列車に乗る者も、2等列車や1等列車に乗る者もみな偶然の身分や能力の違いによる、偶然の産物なのです。

なので、根本的には、自分が能力を作り出したのではなく、送られて来たものであり、能力は自分に委ねられた者と考えるべきなのかもしれません。

そういう意味では、「カリスcharis」を贈られたものなのです。カリスとは善意、感謝あるいは恵みという意味です。

3等列車に乗るものは貧しい者で、へりくだる者です。逆に2等列車や3等列車に乗るものは傲慢で高ぶる者なのです。

なぜなら、貧しい者は、人からの愛を受ける以外に生きる術がないからです。善意という恵みを受けうるものなのです。なので、カリスを贈られたものなのです。

逆に、1等列車や2等列車に乗るものは、支配という力に頼ってしか生きられない人です。なので、自然と傲慢や高ぶる者になるのです。

愛を受けうるもの

なので、金持ちは不幸であるのです。金銭や物でもって、3等列車に乗ることしかできない貧しい者を力で支配しようとするからです。

そこには愛のかけらもないのです。他者の懐に暴力的に入り込んで物を投げ与える行為だからです。

もう一度『三等列車』を眺めてみれば、意図的に前面に3人が並んで描かれています。乳飲み子を抱えた母親、バケットを持つ年老いた女、ぐっすり眠る少年の3人です。乳飲み子を入れると正確には4人です。

貧しくとも、無力なものでも、それぞれが支える関係性を構築していることが見て取れます。人が人に触れるということは、ある種、奇跡的なことなのです。

なぜなら、金持ちに誰も近ずく者がいないように助け合うという行為や関係性が成り立たないのです。人との関係性は力による支配の関係性以外持ちえないからです。

金持ちは、1等列車に乗っていることが想像できます。おそらく、1人か、あるいは、使用人を連れて荷物運びをさせているでしょう。

なので、金持ちは力を持っているので、金と力で他者を支配するのです。さらに、自分を守るためたくさんの武器をもっているのです。決して愛を受けられるものにはなれません。

しかし、自分を守る者がない、貧乏人はお互いに助け合わなければならないのです。

『三等列車』の後ろに座っている多数の若者や老人たちはひしめき合っているにもかかわらず、だれ一人としておこるものはいません。かえって尊敬すら感じられます。

おわりに

ドーミエの『3等列車』を題材に人間の本当の姿をえぐり出してみました。パリへ出稼ぎに行く列車でしょうか。

その雰囲気は、決して明るい感じではありませんが、一人ひとりが何か決意に満ちた感じさえ漂ってきます。それは、ちょうど、産業革命後の急激な社会変化の只中にある都会の人々の、貧しくとも自立へ希望が、列車の窓からの陽光がそうさせているようにも感じられます。

人は人を決して力でねじ伏せることはできません。金の力をかりて、金持ちは、移民者をまるで奴隷のようにこき使っていた時代から、パリの市民革命によって徐々に庶民の力がついてきた時代でもあります。

人が人に触れるということは、何か奇跡的なことなのです。人は自分から心を開いてくれなければ、外からこじ開けることはできないからです。それが人間の尊厳ということです。

参考までに、1789年フランス革命期に次のような権利宣言を市民に向けて発しています。

一つの厳粛な宣言のなかで、自然で、譲り渡すことができず、そして神聖な人の諸権利を表明することを決意した。

出典:人および市民の権利の宣言(フランス人権宣言)

https://worldjpn.net/documents/texts/pw/17890826.D1J.html

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