目次
- はじめに
- 貧しい者の幸せ
- 神に反問する
- 愛を受ける者
- おわりに
はじめに
フィアンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)はオランダのポスト印象派の画家です。
1885年32歳の作で、農民をモデルとした人物をはじめて描きました。この作品は、まだ彼が画家になる決意を固めて、それほど立っていない点からも処女作に近いものです。
彼自身も常に貧困の中で暮らし、自分達が作った農作物をささやかに、そして厳かに食べる風景をこよなく愛していたのです。
それは、彼の家庭環境に大きく影響されているようです。というのも、父が神父であり、彼自身も神学校で学び、神父を目指していたという経歴があるからです。
なので、この作品から貧しさの中にも、謙虚でへりくだって生きる農民への憧れがあったのではないでしょうか。マタイ5章1~12節に次のようなたとえ話があります。
1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/nt/matt/5?lang=jpn
ゴッホにとって、食べ物を自分たちで作って、わずかな食べ物をとても大切に食べる光景は、まさに尊敬に値する人たちに映ったのではないでしょうか。
本当の幸せとは、貧しくとも助け合いながら十分に豊かな生活を送ることができるんだという、農民のような生活者ではないかという発見だったのかもしれません。
当時の農民の生活は、地主からわずかな土地を与えられ、食いぶち以外はすべて取られてしまうという、みじめなものだったようです。
なので、土地を持っている人はさらに豊かになり、持っていないものは、持っているものまでも取り上げられ、社会のどん底に転落し、宗教的にも汚れたものとみなされていました。
それに追い打ちをかけるように、戦争や天候不順や病によってわずかな作物までも取り上げられて、まるで消耗品のように死んでいったのです。
貧しいものの幸せ
ゴッホは、この絵を描くときの気持ちを書簡で次のように書いています。「ジャガイモを食べる人々がその手で土を掘ったということが伝わるように努めた」と。ゴッホの宗教観は「わが手を汚して働く人々への尊敬」があったのです。
さて、この絵をじっくり見てください。農民の目は、けっして暗い表情ではなく、温かみのあるまなざしがお互いの顔に向けられています。
そして、だれ一人として王様のようにでっぷりと太った人はいません。一人ひとりの顔も頬はこけて、手の指の節々は太く、働く農民の手であることがわかります。
かといって、決してガリガリに痩せているわけではなく、しっかりした足腰と、男も女も筋肉質で、いかにも重い物を持って働く肉体労働者であることです。
ところで、金持ちは本当に幸せでしょうか。金持ちは力によって自分を守り、他者を支配します。なので、自分の力で他者をねじ伏せ、もぎ取ろうとするのです。
しかし、私たちは順風漫歩な人生を歩んだとしても、突然に襲う病魔や自然災害などで、すべて崩壊するかもしれないという不安定な状態で生きています。
その典型が王様です。城を作り、周りは城壁で固め、力によって支配します。あるいは他者を力づくで自分の思い通りに動かそうとします。
ところが、貧しい者は、そんな力はありません。貧しいもの同士が力を合わせるしか生きていけないからです。ゴッホの生きた当時、地主による農作物の搾取は、わずかな食糧だけを残して、ほとんど取り上げられてしまっていました。
ゴッホは、そういった農民の姿は、神のように見えたに違いありません。当時の農民を汚れたものとみていた風潮に対して「心が清い」人々だということを訴えているかのようです。
農民のように、貧しいもの、王様のように力をふるうことができないものは、弱い者同士が愛を寄せ合って生きていくしかありません。ゴッホは本当の幸せがここにあることを悟っていたのではないでしょうか。
神に反問する
農民の姿をありのままに描く肖像は、見た目は決して美しいとは言えません。しかし、その姿を通して日々の仕事に従事する、貧しくもつつましい生活を送る日常の生活を創造させることができます。
それまでの色鮮やかな宗教画とは真逆の色使いで、黒を主体とした絵画は、どちらかというと陰湿で汚れた印象を与えかねません。
それでも、農民の顔に決して暗さはなく、手の節々や腕のたくましさは、自分達の手で糧を稼いだものだけが知る誇りさえ感じさせます。
ゴッホは、このような人たちを描きながらも、神に反問していたのではないでしょうか。それが「なぜ、貧しいものが幸せか」という問いだったのでしょう。
ただ、ゴッホの疑問はある種のうらやましさにあるのかもしれません。なぜなら、生涯独身で過ごす一方、女性を求愛し、家族を求めたのですが、極度の躁鬱で対人面でうまくいかなかったからです。
その反面、農民の家族は貧しく慎ましい生活をしながらも、お互いが愛し愛される関係を持ち続けたに違いないのです。それがこの農民のまなざしに見事にあがきだされています。お互いの目をじっと見つめる目はどこか尊敬の念さえ感じられます。
貧しい人は幸せであるという神のことばの意味は、弱い者だけが愛を受けることができるからであり、他者を愛することができるということです。
ゴッホの『ジャガイモを食べる人々』は、なぜ、貧しい農民がこんなに幸せな顔をしているのかという疑問と、そのうらやましさは、神に対する反問だったのかもしれません。
愛を受けうるもの
新約聖書ルカ福音書に次のようなたとえ話があります。
そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
新約聖書ルカ6章20節
イエスの言葉はこの世の常識とは逆です。今の世の常識は、お金があり、地位や名誉がある人は、何と幸せだろうと誰もがうらやみます。
またそのようになるためにみな必死で苦労します。しかし、実はそうではないといっているのです。その証拠に、貧しい者は最初から何も持っていません。自分を自分で守ることが初めからできていないため、貧しいもの同士が寄り添って生きるしかかないのです。
なぜなら、お金持ちは自分を守ろうとし、貧しいものを排除するからです。お城のような城壁で周りを囲み、詐欺や泥棒から身を守ろうと躍起になるのです。
なので、金持ちは他者に触れることができないのです。相手を支配するという姿勢を持った者に、愛する人はどこにもいません。
自分を守ろうとすることが立派な人間の威厳だと思っているので、そのような人に人は決して自己を開くことはありません。それが金持ちが不幸だという意味です。
逆に貧しく飢えているものは、弱い者同士が愛を受け取りあって、何とか生きていけることができるのです。しかし、愛という触れ合いによって他者と結びつくことは奇跡的なことかもしれません。なので、飢えているものは幸いなのです。
おわりに
ファン・ゴッホは、聖職者の家に生まれ、少年のころは聖職者を志すようになりました。ところが神学校の受験に失敗し、放浪の末に画家を志すようになります。
しかし、孤独な絵描きを続けている内に、精神病を発症し入退院を繰り返すようになります。そして、彼は30代で絵を描き始め40代でなくなる10年間に400点ほどの絵を残しています。
ただ、残念ながらその評価は生前には全く評価されていませんでした。ところが亡くなってから、パリの評論家から高く評価されはじめていきます。
中でも、『ひまわり』の絵は、世界中で知らない人がいないくらい有名になりました。数々の映画やドラマにもなり、ゴッホという名前も絵とともにその名が知れ渡るようになっています。
ただ彼は、聖職者を志し、貧しい人々に聖書を解く伝道師になりたいという思いだけは、画家になっても脈々と心の奥深くにあったのでしょう。
なので、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じていたようです。しかし彼は、精神病を発症してから、ことごとく人との関係に失敗しています。でも幸い、弟からの援助を受けながら絵を描くことだけはできました。
彼の絵は、おそらく神への反問を繰り返しながら描き続けることができたのでしょう。それが、彼にとっての原動力になっていたのではないでしょうか。
生前ゴッホは、テオ(実弟)との書簡の中に次のような、絵画に対する情熱を語っています。
僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。