目次
- はじめに
- 真の自分に出会うとは
- 本当の人間の交わり
- 他者の恐るべき高さ
- まとめ
はじめに
グリム童話は、「白雪姫」や「ヘンデルとグレーテル」など有名な物語がたくさんあります。中でも「白雪姫」はディズニー映画にもなり、知らない人がいないくらいです。
もともとグリム童話は、ドイツのグリム兄弟が19世紀にドイツ各地の言い伝えを収集して作られたものです。
いうなれば、昔話(メルヘン)であり、ドイツ語でGrimms Marchenとよばれ、世界中で最も多く読まれた物語です。
中でも『白雪姫』(原題:Sneewittchen)は、人間の欲深さと嫉妬心を見事に描き出している秀作です。
白雪姫は継母から逃れ、7人の小人たちに助けられ、真実の愛に目覚めるまでの物語です。
女王の嫉妬から殺されそうになった美しい、家来の機転で一命をとりとめ、森にすむ7人と小人と幸せに暮らすのです。そんな中、白雪姫が生きていることを知った女王は、妖婆に化けて毒リンゴを食べさせます。
何という女王の嫉妬の奥深さと欲望の大きさに圧倒されます。しかし、これは、本来人間の持つ傲慢と高ぶり以外の何物でもないのです。
人間は強ければ強うほどいいという思いと、美しくありたいという思いは人間の我執(エゴ)からきています。
真の自分に出会うとは
本当の自分を探し求め、さ迷い続けるのも人間です。誰よりもきれいになりたい、たくさんのお金が欲しい、あるいは、地位や名誉が欲しいと日々、悪戦苦闘しながら生きているのが現状です。
しかし、本当の自分とはそこにはないんです。それがわかるには、人生のどん底を味わってみなければわからないことなのかもしれません。
なぜなら、今の社会は、強さを求められ、能力とか、体力とか、美貌とか、社会的地位とか、皆そういう力で武装しているからです。
そのとき人は、その人の強さや力に魅せられ、その力や強さにあずかろうと近ずいてくるのです。
白雪姫の物語はまさに美しさへの嫉妬です。女王は自分が最も美しいと思わずにはいられず、白雪姫を殺そうとするのです。
その本質は、自分に向かう力です。どんな人間でも同じような嫉妬心はあるのです。その裏返しが、強さの憧れと武装なのです。
なので、能力もない、容色もない、財産もなければ、社会的地位もない、いうなれば何のとりえのない人に誰が近ずいてくるのでしょう。
でも、そういった醜くて誰からも相手にされない人に、だれかが近づいてきたとしたらどうでしょう。
その時、人間は真の交わるに入ることができるのです。人間の本当の喜びとは、弱い自分をさらけ出したときに現れるのです。
本当の人間の交わり
人間同士の交わりのほとんどは損得の中にあります。ですから、お金にまつわる関係がほとんどです。それに付随して、社会的地位とか、美貌とか、体力とかが関係してくるのです。
その典型が、王様であり、女王なのです。なので、女王より美貌に勝るものがあれば、徹底的に排除するのです。
逆に、まったくそのような損得勘定なしで、人との関係を作り上げることは大変なことがわかります。なぜなら、お金がない、能力もない、社会的地位もない、何のとりえもない人間に誰も近づかないからです。
でも、何もない者同士が関係を持てたとしたらどうでしょう。それこそ本当の交わりというものが起こるのではないでしょうか。
その典型が、7人の小人です。小人一人ひとりを眺めてみれば、それこそ能力もなければ、お金もない者同士です。ただ助け合って食べていくより術はないからです。
突然の珍客である白雪姫をかくまうだけでなく、とても親切に面倒を見たのです。それもこれも普段の生活がとても質素で、無力なもの同士が助け合って生活していたからに相違ないのです。
お金持ちになりたいとか、きれいになりたいとか、人に誉められたいとか、欲望の充足ばかりを追いかけまわしている人間とは真逆なのです。
心穏やかに楽しく生きるには、欲望ばかりを追いかけまわす社会では得られない質素な生活こそが、本当の幸せなのかもしれません。
他者の恐るべき高さ
他者とは恐るべき高さであると哲学者レヴィナスはいっています。それは自分の中に絶対に取り込めないという高さです。そういう意味では他者とは絶対者(神)です。
たとえば、『白雪姫』でいえば、主人公白雪姫そのものです。いくら王女でも、白雪姫の美貌には勝てません。この世の中で、自分が一番美しいと思っているものには、白雪姫は邪魔者以外の何物でもないからです。
しかし、白雪姫を殺したからといって、自分より若くて美しい人は次から次へと現れるでしょう。その都度殺していたら、最後は、自分が年齢を重ねていくうちに、その美貌は衰え、増々醜くなるのです。
このように他者は絶対に取り込めない絶対者(神)であり、殺したからといって決して自分の中に取り込めないのです。
他者は決して認識できないんです。認識できると思ったとたんに物になってしまいます。所有物という同化された物になり下がるということは、分解し修理することも可能なんです。
なので、ロボットと同じで、部品の交換、修理が可能ということになります。
そうなると、どういう風に他者との関係をつくればいいのかが問題になります。祈りに近い渇望という意味に近い言葉で、フランス語でdésir(デジール)という言葉があります。
他者との関係は祈りに近いという意味では、他者とは絶対者(神)であり、祈り渇望する関係から「憧れ」が最も妥当だということになります。
まとめ
さて、『白雪姫』を題材に、哲学的に人間の持つ本質を探究してきました。ちょうど、白雪姫と王女(妃)との関係が、人間の本質を見事に表していることに気づきます。
強欲な王女は、その娘(義理の子)が次第に美しくなるにつけ、その美しさに嫉妬します。自分が一番美しくなければ気がすみません。傲慢で高飛車な性格はすべてにおいて自分が一番になりたいのです。
しかし、どんなに位が高い者でも、他者は絶対者(神)ですから、憧れという関係しかなり立ちません。なので、絶対に同化できないのです。私の一部とはみなすことができない、切り離された(absolu)なのです。
しかも、王女にとって、白雪姫は自分に取り込めないものであり、畏れであり、恐怖にさえなるのです。それが、切り離された存在としての他者なわけです。
さらに、超越まで高められた白雪姫が憎くてたまらなくなってきたのです。それはこの世から抹殺するしかなかったのでしょう。そうなれば自分が一番美しくいられるからです。
人間はいつでも他者が一番気になります。しかも自分にない者があればなおさらなのです。しかし、自分が唯一無二の存在であることに気づけば、他者は常に「憧れ」の関係でしかなり立たないことがわかるのです。
「憧れ」や「祈り」という関係である他者は、自らは、貧しいものとともにへりくだだることと同意だということです。