イソップ寓話が聖書に与えた影響~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 『アリとキリギリス』の教え
  3. 箴言から読み解く知恵
  4. イソップ物語から見た人間の本質
  5. まとめ

はじめに

イソップ寓話は古代ギリシャの紀元前600年ごろにアイソーポス(イソップ)という奴隷が作った話といわれています。

物語には教訓や風刺が盛り込まれていて、何といっても擬人化した動物たちを登場させて、当時の人たちに知恵を授けようと意図したものです。

イソップの寓話は、聖書ができる遥かむかしの話でしたが、その教訓や逸話は聖書の中にも反映されているのです。

たとえば、『アリとキリギリス』は、聖書にも同じようなことが書かれています。箴言6章6節に「怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める」と。

ところで、聖書(旧約)は紀元前6世紀ごろから作られたとされています。当初は、伝承という形をとり、おそらく、各地域の言い伝えや、たとえ話、寓話など様々な形でいい伝えられたしきたりなどを編纂していたものと思われます。

したがって、当然、エジプトやメソポタミア文明が栄えたころから集められたものが物語となって出来上がっていったのです。

なかでも、『アリとキリギリス』に代表されるようなわかりやすい物語を通して、当時(ギリシャ時代)の民衆(ギリシャ人)に生きるための知恵を授けようとしたのです。

それがのちになって、聖書に編纂される足がかりとなり、また、契約書としての聖書をわかりやすく伝えるための道具として、寓話が多用されていったのです。

『アリとキリギリス』の教え

イソップ寓話を代表する1つに『アリとキリギリス』があります。あらすじはおおむね以下のようです。

夏の間アリはせっせと穀物を集め、それを見たキリギリスは馬鹿にします。やがて冬が到来し、空腹と寒さに困窮したキリギリスは、アリに食べ物を分けてほしいと懇願します。しかし、断られ、空腹を抱えたまま凍死するというお話です。

このように時を知り備えることの大切さを説き、その影響を受けて聖書にもアリの話が出てくるのです。

怠け者よ、アリのところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。

出典:新約聖書:箴言6章6~8節

聖書の箴言には、古代から長く受け継がれた知恵のことばがたくさんあります。古代に生きた人々も、人生で多くの困難に遭い、課題や悩みを抱え、知恵の尊さを求めてきたのです。

なので、多くの格言が生まれ、それが箴言となって聖書にも反映してきたことは至極当然といえるでしょう。

私たちは、日々自分で判断し、より良い結果を導き出して生活しているのも確かです。その中で、自分の力に頼ることもあると思います。

しかし、自分の力に頼るほど恐ろしいことはないのです。それが知恵の戒めです。

箴言から読み解く知恵

聖書の箴言は、それを知恵として読み解くには大変難解であることは言うまでもありません。なぜなら、人間の考えをはるかに超えているからです。

この世の知恵と箴言が教える知恵との大きな違いは、神からの知恵であるため、人間の欲望の視点では見えないのです。

たとえば、『放蕩息子のたとえ』は有名な話です。ある兄弟と父親の話しです。弟は好き放題に生き親の財産を分けてもらって放浪の旅に出ます。一方の兄は親と同居して父とともに農業を継ぐことになります。

しかし、放蕩三昧の弟は飢饉に会い、財産を使い果たし、世間の冷たい風にあたり、親のありがたみがわかるのです。

さて、人間の目で見れば、まじめに親の後を継いだ兄に一理ありますよね。ところが、神の目は違います。どんなに過ちを犯しても、悔い改めた人こそが偉いのです。

弟は、使用人として働かせてくれと父親に懇願します。それを聞くや否や父親は最上の接待に代わります。もうお分かりですよね。父とは神のことです。

「偉くなりたければしもべになれ」という言葉をキリストは残しています。最も低いもの、小さきもの、へりくだるものに神はつくとされているのです。

イソップ物語からみた人間の本質

イソップ物語の中でも有名なお話で『金の斧、銀の斧』があります。内容はざっと以下の通りです。

むかしある男が、川のそばで木を切っていました。
ところが手が滑って、持っていたオノを川に落としてしまいました。
男はこまってしまい、シクシク泣きました。
オノがないと、仕事ができないからです。
すると、川の中からヘルメス(→詳細)という神さまが出てきて、ぴかぴかに光る金のオノを見せました。
「おまえが落としたのは、このオノか?」
「ちがいます。わたしが落としたのはそんなにりっぱなオノではありません」
すると神さまは、つぎに銀のオノを出しました。
「では、このオノか?」
「いいえ。そんなにきれいなオノでもありません」
「では、このオノか?」
神さまが3番目に見せたのは、使い古したきたないオノでした。
「そうです。そうです。拾って下さってありがとうございます」
「そうか、おまえは正直な男だな」
神さまは感心して、金のオノも銀のオノも男にくれました。
よろこんだ男がこのことを友だちに話すと、友だちはうらやましがって、「おれも金のオノをもらってこよう」と、さっそくきたないオノを持って川へ出かけました。
そして、「えいっ」と、わざとオノを川に投げると、シクシクうそ泣きを始めました。
そこへ川から神さまが出てきて、ぴかぴか光る金のオノを見せました。
「おまえが落としたのは、このオノか?」
「そうです。そうです。金のオノです。その金のオノを川に落としてしまったんです」
とたんに、神さまは目をつり上げて、「このうそつきのよくばり者め!!」
こわい顔でどなると、川の中へ戻ってしまいました。
うそつきでよくばりのこの友だちは、自分のオノも拾ってもらえず、いつまでも川のそばでワンワン泣いていました。

出典:みんなが知っている世界の有名な話http://hukumusume.com/douwa/betu/aesop/05/25.htm

この話は、神さまは正直な人にはやさしくしてくれるが、それだけに、うそつきにはきびしい態度をとります。
よくばってうそをつくと、けっきょくは、前よりも損をするのです。

ただし、人間の本質が垣間見えることが別にあるのです。もっとも人間の本質をついているからからです。欲望と傲慢が人間の本質にあることを見のがすわけにはいかないのです。

聖書『格言の書』に次のような言葉があります。

金よりも知恵を得るほうがどんなに良いだろう。銀よりも理解を得る方が望ましい。

正しい人たちの道は悪から離れている。自分の道を見守る人は生き続ける。

誇りは崩壊につながり、傲慢な精神は転落につながる。

温厚な人たちの間で謙遜である方が、傲慢な人たちと戦利品を分け合うよりも良い。

出典:ものみの塔オンライン・ライブラリーhttps://wol.jw.org/ja/wol/h/r7/lp-j

金の斧欲しさに、錆びた斧を再び持っていき、人間の欲深さと傲慢さを垣間見ることができるでしょう。

人間の欲深さと傲慢は、生きることと切っても切れない関係にあり、取り去ることはできません。

なので、人間には知恵が必要だったのです。知恵を得ることことは、金の斧をとるよりもはるかに勝るといっているのです。

人間は欲望とともに生きています。それを切り離すことはできません。なので、傲慢よりもへりくだる生き方しか生きる道はないのです。人間は傲慢になりやすく、そこから得られるものは没落以外の何物でもありません。

まとめ

聖書は知恵の書ともいわれるくらい、人生で大切な知恵を教えてくれます。学んだだけで得られるものでもなく、失敗を繰り返して学んでいくものです。

そういう意味で、聖書は実践の書ともいわれています。ただし、その聖書を読み解くには、きわめて難解で、なぞの多いことでも知られています。

そのことは、実践を通してしか得られない血と汗の物語でもあります。ただし、この知恵の書は、万人のための書でもあるため、わかりやすいたとえ話として、童話や寓話となって教訓として生かされるに至ったというわけです。

ただし、人間は生涯、原罪(欲望や傲慢)を背負って生きなければならないという定めがあります。

その定めが聖書であり律法(法律)なのです。人間には欠陥があることをまずは自覚する必要があるのです。

そのために、トマス・アクィナス司教は、人間(homo viactor)は途上(in via)の一生であるといっているのです。

なので、不完全で生まれ不完全で終わる宿命を負っているのです。なので、信仰によって正しい道、光の中を歩まなければなりません。

暗闇を背負って不正を働くよりは、光とともに王道を歩むことが必要なのです。そのために、傲慢を捨て、へりくだるものとならなければならないのです。

イソップ物語は、それを、そっと、私たちに教えてくれているのです。

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