目次
- はじめに
- 知恵と謙遜
- 人は何で生きるか
- みじめさの中にある本当の自分
- まとめ
はじめに
『イワンの馬鹿』は文豪レフ・トルストイの小説です。主人公イワンは働き者の農夫で、欲がなく馬鹿が付くくらいにまじめな男です。
イワンには3人の兄弟がいて、2人の兄は欲が深く、お金と権力にまみれていました。もう一人は聾唖の妹が同居しています。
さて、この物語はこの強欲な2人の兄とイワンとの生活の中で巻き起こる、様々な問題をどう乗り越えていくかという話です。
賢かった2人の兄は、お金と権力といったものに取りつかれ、悪魔に騙されてしまいます。
しかし、愚直だけが取り柄のイワンは実直に働くことで、様々な悪魔の誘惑も乗り越えていきます。
ところで、賢い兄二人は、欲に目がくらみます。自分を大事にし、自分には価値があるとか、自分の存在に意味があることに紛争します。
長兄のシモンは王様の家来になって戦争にいって出世します。その下の兄タラスも商人の家の婿として私欲を肥やします。
傲慢は心に隙を作り、そこに小悪魔が入り込み、自ら悪行となってあらわれるのです。
知恵と謙遜
聖書『格言の書』に次のような言葉があります。
知恵を得ることは、金にはるかに勝り、悟りを得ることは、銀にはるかに勝る。正しい人の大路は悪から離れている。その歩みに気を配るものは自らの命を守る。自惚れは破滅に先立ち、傲慢は没落に先立つ。貧しい人とへりくだることは、高ぶる者とともに分捕り品を分けるのに勝る。
『格言の書』16-19
人はいかに傲慢で自惚れるのかを戒めている言葉です。イワンの兄2人はその典型で、欲に目がくらみ、親の財産までももぎ取ろうとたくらんでいます。
その行為を見た神は、小悪魔を送ります。兄2人は一層傲慢になり、兄のシモンはさらに領土を拡大しようとより強大な国に攻め入ったため、大負けを喫します。
もう一人の兄タラスは、より一層食い意地が出て、見るものすべて買いたくなり、すっかり借金まみれになってしまったのです。
しかし、イワンは悪魔の仕掛けにも全くびくともしません。硬くなった畑にも、腹痛にもめげずに、いっそう踏ん張って仕事に精を出すのです。
イワンの愚直な性格と謙遜を兼ね備え、悪魔の入る隙はありません。なぜなら、貧しい人とともにへりくだることは、自惚れや傲慢という自己に向かう運動と真逆の行為だからです。
なので、愚直なまでにイワンのような働き者は、傲慢や高ぶる者に勝るのです。
人は何で生きるか
トルストイは晩年の著書として、民話『人は何で生きるか』という本を出しています。それは、人は何によって生きるのかという哲学的テーマです。
トルストイは名声を我がものとして、何一つ不自由のない生活を送っていましが、晩年、何が本当の幸せなのかを探し求めていました。
その答えが、無学で、貧しい、素朴な、額に汗して働く、農民や労働者の信仰の中にこそあることにたどり着くのです。
人間はとかく、自分を大事にして、自分に価値があるとか、自分の存在には意味があるとか、自分がすばらしい仕事をした、自分自身の肯定によって、生きているのです。
トルストイはまさにそれを絵にかいたような人生を送ってきました。その苦悩からようやくたどり着いたのが、農民のように無欲で黙々と働くことだったのでしょう。
みじめさの中にある本当の自分
愛は貧しい者たちの特権であるとトルストイは晩年になるにつれて考えるようになってきました。
なぜなら、富める者は力を持ち、その力によって他者を支配するからです。2人の兄のシモンやタラスが王様になるに従い、貧しい人を殺し、増々自分を守るために汲々としてきたのです。
これに対して貧しいものは無欲です。守るべき財産も才能も社会的地位もありません。自分の本心をさらけ出して生きていくしかないのです。
なので、貧しいものは簡単に傷つけられ、わずかな作物までも奪われ、死にさらされる危険に満ちています。イワンはいつもそのような状況で生きてきたのです。
それでもどんな状況に置かれても、すべてを受け入れてきました。真の自己をいつもさらけ出して生きてきたのです。すでに奪われるものは何もないほど強いもはありません。
まわりから見てみじめさの只中にあるイワンは、裸の自己を露出して、まったくの弱者となっていたからこそ、真の他者に出会うことができたのかもしれません。
真の他者とは、ろうあの妹だったり、悪魔からの危険を守ってくれた神なのかもしれません。
まとめ
聖書にこんな言葉があります。
もろもろの民の主たちは、民衆を支配し、民衆の上に権力を振ろうものが善をなすもの(euergetês)と呼ばれる。だが、お前たちはそうであってはならない。むしろ、お前たちのうちで大きなものは若者のようになり、支配するものは給仕(diakonôn)になれ。・・・私は、お前たちの中で給仕である。
『ルカ』22:25-7
イワンはまさに無欲でお人よし、なんでも受け入れる度量を兼ね備えていたのです。
特に、欲深い兄2人に対しても決して恨むことはしませんでした。ただ、無欲の農民を殺したり、大切にしていた家畜を奪ったりする行為に出たときは、さすがに、ゆるしませんでした。
しかし、無一文になった兄2人も最後には食事を分け与えて養ってやりました。
ただ、どんな人でも手のゴツゴツした人は食事のテーブルに着けるという決まりを崩しませんでした。
悪魔など頭でっかちで、体を使って働こうとしないものには食事のおすそ分けは当たらなかったのです。
高ぶる者を嫌い、貧しい人とともにへりくだるというものをイワンは信念としてしていたのです。
私たち凡人は自己主張したり、怒ったり、他人と争ったり、時に他人を断罪したりします。それは、自分の方が上だといつも考えているからです。いつも自分が正しいと思っているのです。
イワンのように自分の弱さ、愚かさがわかると、主張する自分がなくなります。すべての人は自分の上にあるとわかると、自分が受けるどんな苦痛も、当然受け入れるべき呵責であると考えるようになるのです。
実はイワンは、馬鹿なふりをした、最も賢い人だったのです。なので、正しい人の大路は悪から離れているのです。
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