ジョシュア・レノルズ『幼子サムエル』から見る人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

この絵画はジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds)が描いたもので『幼子サムエル』というタイトルがついています。

彼は1723年、イギリスのプリンプトンで生まれ、肖像画家という職業人として画家の地位を確立した人でもあります。

タイトルのサムエルは、旧約聖書『サムエル記』からきているユダヤの預言者の名前です。

それによると、サムエルは祭司といわれる士師として活躍し、晩年はイスラエルの指導者になった人です。

サムエル記によれば、サムエルはイスラエル王ダビデの指導者(士師)となる神に近い存在でした。

絵画を見ると、祈っている姿は、なんとも可憐な少女に見えますが、実は男の子だったのです。

サムエル記によると、サムエルは神の力で生まれた子どもで、生まれつき神の声が聞こえていたといわれています。

ところで、子どもは、もっとも弱い者、無力なものの象徴です。無力な者、弱い者だけが愛を受けることができるという意味で最も愛される人なのです。

しかし、本当の愛は施すという行為ではありません。つかえるという純粋な行為の働きの中に生まれるものです。なので、身を低くして祈ることしかできない、サムエル少年のような人が最もふさわしい人なのかもしれません。

自分の身を低くする者

イエスは、天の御国で何が偉いかに焦点を当てたとき次のように言っています。

そこで、あなたがたのうちでいちばんえらものは、つかえるひとでなければならない。

だれでも自分じぶんたかくするものひくくされ、自分じぶんひくくするものたかくされるであろう。

マタイ福音書23:11-12

サムエルは王ではありません。王に仕える人であり、教え、諭し、言葉を交わし、人の話に耳を傾ける「さばきつかさ」という神に近い存在だったのです。

真の偉大さは社会的な成功や地位とはほとんど関係ないこと知っていました。なので、ささげる祈りの数だけが、私たちに幸福をもたらすのだと確信していました。

身を低くして立つとは、他者は絶対者であり、自分は身を低くしてかかわる以外、その関係はないといっているのです。なぜなら、他者は我々の把握をいつも超えているということです。わかったと思った瞬間、すでにそこにはいないのです。

なので、他者はわかったというその像を亡骸にして、その背後に常に現れます。仮に理解できるものであるならば、他者は物になり下がってしまいます。

そういう意味で「他者は不在であり、超越である」のです。常に高みに立つものであり、他者はあこがれであり希求でしかないのです。

なぜ生きているか

お前はなぜ生きているのか。人類が始まって以来、ずっと問い続けてきた難問です。その答えは極めてシンプルです。Ich lebe weil ich lebe(私は生きるから生きる)だけです。

生は、まさになぜという問うことなしに生きるしか術はないのです。それが神とともに生きるということです。例えば、毎日毎日意識しなくても呼吸しているし、心臓は規則正しく動いています。

サムエルはまだ、自分のことすらわからない幼少期ですが、神とともにあることを理解していたはずです。なぜなら、神の経験というのは、我々が存在し、それを体幹することだけでしかわからないからです。

まさに生の根幹を指し示すには、黙って手を合わせるしか仕方のないことです。なぜという問うことなしに手を合わせるしかないのです。その明確な答えは人間にはわかりません。

ただ人間にわかることは、自己執着から一歩も抜け出せない弱さを背負っているという自覚です。大司教アウグスティヌスでさえ『告白』で次のように言っているのです。

私は弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。意志することもできません。それどころか、何が善であるかを、知ることもできません。どうかあわれんで、私を照らしてください。

アウグスティヌス=山田晶1996:40

人間がいかに愚かで、みじめなものかを悟ったものでないとわからない心境です。ただ、アウグスティヌスは、罪人だと自覚しただけでなく、「在らしめられて在るもの」であるという神への感謝の境地に達したことが重要だったのです。

子どものようになるということ

たとえば、もっともこの世で偉大な人は誰だと思いますか。答えは極めてシンプルです。サムエルのような子どもです。なぜなら、社会の中で最も無意味な者(最も小さい者)だからです。聖書の中でも次のように言っています。

3 よくきなさい。こころをいれかえておさのようにならなければ、天国てんごくにはいることはできないであろう。

このおさのように自分じぶんひくくするものが、天国てんごくでいちばんえらいのである。

11 ひとは、ほろびるものすくうためにきたのである。

マタイによる福音書18章3ー4-11

https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/nt/matt/18?lang=jpn

子どものように低くならなければ天国には入れません。ではどうしたら子供のように謙虚になれるのでしょう。これも答えは極めてシンプルです。大人になればなるほど謙虚になれないのです。

なぜなら、エゴが働くからです。生に張り付いたエゴだからこそ、絶対に取ることはできません。なので、どんなに努力しても子供のように謙虚になれないのです。

ではどうしたらいいのでしょう。その答えはわかりません。なぜなら、人間には生きて存在している以上できないからです。ただ、サムエルのように手を合わせて祈るしかできないのです。

それは、罪深い人間のエゴは、その都度出てきますので、謝り、反省する以外ないのです。アウグスティヌスが「告白」したように・・・。ただ、人間にはその告白すらできないのです。

おわりに

私たちにできることは手を合わせて祈り、謝罪し、生きていることに日々感謝するしか何のかもしれません。それが生きているものの責任なのです。

その責任を少しでも果たすためには、他者に仕える、あるいは奉仕することです。日々の中で、あるいは仕事を通して他者を支え続けるしかありません。それは、存在することに対する命令であり、感謝なのです。

カントはそれを「定言命法」と呼んでいます。他者は絶対に物として扱ってはならないという命令です。なぜ命令なのかは、人間には理解できません。

ただ言えるのは、人間はエゴを抱えている以上、いつでも過ちを犯し、他者をモノとして扱う恐れを抱えているからです。なので命令するしかないのです。

最後に、サムエルは「カリス」を贈られたものであるという話をして終わりとします。「カリス」とは善意、感謝、恩恵などの意味があります。

サムエルのように、謙虚に感謝をささげる姿こそ「カリス」という言葉がぴったり当てはまります。私たちは、日々の恵みに感謝するしかありません。お日様は、誰に対しても、日々光を照らしているではありませんか。

 

 

 

 

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