はじめに
この絵は『めくらの乞食』(1882年)という題名で、ジュール・バスティアン・ルパージュの作品です。
この絵が描かれた時代はちょうど産業革命後の19世紀のパリが舞台です。路上では浮浪児がたむろし、うろつきまわり、野宿をし、踵の下まである大人の古ズボンをはいています。
この絵の中の彼は、盲人です。当時浮浪児は、極貧層であり、さらに盲人はその身分は最下層に属していたのでしょう。働くすべもなく、物乞いで暮らしていたのです。
ところで、ヨハネによる福音書で盲人に関して次のように言っています。
イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
わたしは、この世にいる間は、世の光である」。新約聖書ヨハネ福音書第9章1-4
https://www.wordproject.org/bibles/jp/43/9.htm
盲人について、イエスは多くの災いは、当人の超えたところで起こっていると考えています。なので、この人が罪を犯したのでなく、神のわざがこの人に現れたのだといいます。
単なる因果法則で人は人を見ますが、神の視点は全く違い、盲人は神が遣わしたものという解釈です。なので、この世の光となって、周りを照らす人なのです。
盲人との関わりによって、関わった人にも光が当たるように神は栄光を与え続けるのです。
目次
- はじめに
- 盲目の少女ジェルトリュード
- 一切を捨てるということ
- 本当の見る目とは
- おわりに
盲目の少女ジェルトリュード
盲目の少女ジャルトリュードとは、アンドレ・ジットの小説『田園交響曲』に出てきます。ジットもフランス出身で『めくらの少年』と同じ時代(19世紀)を過ごしています。
この小説は、聖書マタイ福音書の次のたとえ話がベースになっているといわれています。
彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。
新約聖書マタイ福音書15-14
「彼らをそのままにしておけ」とは、彼らは師でも何でもない、そんな間違いだらけの拝は放っておけといっているのです。
人生の歩みも一緒ではないでしょうか。正しい導き手こそが大切なのです。もしも間違ったものの教え(めくら)に先導されたら、それこそ暗闇に放り出された盲人と同じではないでしょうか。
さらに人は、人の悪いところはよく見えます。自分はもっと悪いにもかかわらず気づくことができません。そのことを聖書でも次のように取り上げます。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
新約聖書ルカ福音書6:41-43
現代はSNSによって「裁きあう時代」だといわれています。本来人間は、神とは違い不完全な、欠損を伴ったものであるという自覚が必要です。
なぜなら、主観性という落とし穴があるからです。自分中心に志向が働くため、自分の目の前にある丸太に気づかないからなのです。
ところで『田園交響曲』は、牧師が盲目の少女ジェルトリュードを大切に育てるのです。自分の息子がこの少女を好きになってしまったため、2人を切り離してしまうのです。牧師自身が好きだったことに気づくのです。
悲劇はそこから始まり、手術によって目が見えるようになり、愛していたのは牧師でなくその息子だと気づきます。しかし、最後に彼女は身を投げて自殺してしまうという悲劇が待っているのです。
一切を捨てるということ
聖書には非常に厳しい、そして、絶対にできないという言い伝えがあります。
だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
新約聖書ルカ福音書14:26-27
血のつながっている、父、母、兄、弟は最も深い愛情をもってつながっている方々です。この人たちを憎めといっています。
しかし、本当に正しい道を歩むものは、イエスのように、十字架を背負って生きるということです。それが一切の関係を断つということになります。
もう一度、『めくらの少年』を見てください。まったくの無防備で、どうぞ殺してください、どうぞなんなりと取っていってくださいといっているようにみえませんか。
既にこの少年は、一切のものを捨て去り、命までも投げ出しているのです。このころの浮浪少年たちは徒党を組み、盗みや悪さを働いていました。
しかし、この少年のように無防備であるにもかかわらず相手にはしません。なぜなら、一切の持ち物もなく、一切の人間関係もたっているからです。
実は、捨てられない最大のものは「自分自身への執着」です。イエスは「自分の命を得ようとするものは、それを失うのだ」とまでいっています。
本当を見る目とは
この時代の盲目の少年は、道端に座って物乞いをする以外に生きる術はなかったようです。おそらく、少年は他の少年から罵声を浴び、なされるがままに転がされていたに違いありません。
ただし、他の浮浪少年も同様に飢えに苦しみ、隙あらばものを盗み、悪さを働いていたのでしょう。ただ、これらの目に見える晴眼者の目には、目を開けているつもりでも、本当に見るべきものを見ていませんでした。
自分にとっての都合のよいものだけを見ていたのでしょう。なので、何もない者には手の出しようがないのです。
おそらく、このような盲人には天罰が下ったと罵声を浴びせたことでしょう。しかし、この少年が盲人で生まれたのは、誰のせいでもありません。イエスは、この少年が盲目なのは、神のわざが現れるためだといいました。
では神のわざとは何でしょう。この盲目の少年は、おそらく、他者の施しなしではいきることはできないからです。
神は弱い者、最も虐げられた者をこの世に遣わしたのです。そうすることで、他の人間はどうするのでしょう。嘲り、罵るに違いありません。
しかし、自分のみに不幸が押し寄せると人は割り切れない思いにさせられます。このように人の不幸は嘲り、自分に不幸が来ると誰をも恨むのです。
このように、「私たちは目が見える」といっても、自らの罪さえ自覚できていません。そういう意味では盲目なのです。
原因と結果しか見えない人間には、神のわざは見えません。しかし、めくらの少年は研ぎ澄まされた霊的な目で、人間には見えないものを見ることができるのです。
彼は、人間の「本当」を見ているのです。人間の本当は誰にも見えません。強欲が邪魔をしている人間には決して盲目の少年が発する光は見ることができません。
おわりに
『めくらの少年』を題材に、人間の本当の姿に迫ってみました。盲目の少年は、晴眼者には決して見えない、本当に生きる知恵が見えている人なのかもしれません。
なので、人間は見ているのに、本当に見ているのかというと、ほとんどの人は大切なことは何も見ていないことに気づくはずです。
なぜなら、子どもが重い病気になったり、自身ががんになったりすることは、誰でも起こりうることなのに、いざ自分のこととなると、「なぜ自分が」と原因と結果にばかりに翻弄されてしまうからです。
しかし、苦難は誰もが生きている限りは襲い掛かります。敬虔なヨブにも不幸は何度でも襲い掛かかります。しかし、人間は、苦しみの原因よりも、苦しみの目的に目を注ぐように招かれていることに気づきません。
私たち人間は、我欲が徐々に大きくなり、放っておけば、さらに傲慢になっていきます。神のことなど忘れたころに不幸は襲い掛かるのです。
人間は盲目ゆえにそうなるようにできています。しかし、へりくだって神の奥深い知恵に服従することによって、神の栄光が現れます。
盲人は自業自得の罪なのか、それとも、世の光となって、神からわざを託された聖人なのか。誰もわかりません。おそらく人間の因果の本則では正しい答えはわからないのです。
しかし、事実として、私たちにも自分の身体なのに思うように動かない日は必ず来ます。その時ようやく気付くことになるのでしょう。
強さばかりを追い求めてきた人間には、自分の中の弱さは見えません。それが年齢を重ね、自らの体が蝕まれていることを。その時、自己は自己でさえないことを悟るでしょう。