絵画『ディオゲネス』を通してみる人間の本質~ジュール・バスティアン=ルパージュ~

哲学・倫理

はじめに

絵画『ディオゲネス』はジュール・バスティアン=ルパージュ(Jules Bastien-Lepage1848~1884)の作品です。

そもそも、ディオゲネスとはギリシャの哲学者の名前から来ていると思われます。紀元前4世紀のころの人で、自由で自足的な生活を求め、敢えて犬のような生活を理想としていました。

なので、この絵のように、裸同然として生活する、乞食のような人だったのです。彼は、地位を求めず、家を捨て、不要なものは一切身に着けなかったのです。

聖書に次のような言い伝えがあります。この言葉はイエスがディオゲネスを見習ったとされています。

貧しいお前たちは幸いである。神の国はお前たちのものだからである。

新約聖書ルカ6-20

イエスは、神の国は貧しい者たちの交わりの中にあると説いています。貧しい者たちは、まずしい者同士が交わりなしには生きていけない。そのために、愛は貧しい者の特権となるのです。

ディオゲネスはすでに人間の強欲を見抜いていたとされています。その証拠に、白昼堂々とアテナイ市民の顔にランタン(ろうそく)を当てながら「正直者を探している」と歩き回ったという有名な話が残っています。

それは、正直に生きることを妨げている、人為的に作られた慣習に人々が参加していることを認識させたかったからです。

人為的に作られた慣習とは、財産や名誉や社会的地位に振り回され、傲慢や自惚れによって、貧しい者たちを奴隷のように蔑むことです。

目次

  • はじめに
  • ここは俺が日向ぼっこする場所
  • 弱さをさらけ出すということ
  • 人間の受動性
  • おわりに

ここは俺が日向ぼっこする場所

アレクサンドロス大王がディオゲネスを訪ねて「何なりと望みのものを申してみよ」といったのに対し、ディオゲネスが「どうか、わたしを日影におかないでください」といったのです。

それを聞いたアレクサンドロス大王は「お前は、余が恐ろしくないのか」といいました。それに対して彼は「いったいあなたは何者ですか」と尋ねたというのです。

ディオゲネスにとって、地位や名誉や財産などは眼中にないのです。最も恐れたのは、自分の自由を奪われることだったのです。ディオゲネスにとって「ここは俺が日向ぼっこする場所」だったにすぎません。

金持ちや地位の高い者は自分を守るためにたくさんの武力を持っています。ちょうど、アレクサンドロス大王のように。石壁や小高い山の上に城壁を巡らせ、城を建てて自分を守るのです。

おそらくアレキサンドロス大王は、ゆっくり休めることはなかったでしょう。なぜなら、夜中に寝首をかれるからです。寝首を掻くのは敵だけでなく家臣でさえ信用できなかったためです。

ところが、ディオゲネスは路上の樽の中が住処であったため、まったくの開けっぴろげなので、丸裸同然ですから、何も持っていません。

何も持っていないほど怖い者はいません。たとえ大王が来ようが、泥棒が来ようが、一切の虚飾を捨てて対面しているので、「余が恐ろしくないのか」といわれても、動じることはなかったのです。

夜はたとえ殺されてもかまわないという自分の命までもさらけ出しているのです。なので、夜は誰からも気兼ねすることなく休めるのです。

弱さをさらけ出すということ

この絵は、みじめな正体をさらけ出しています。自分を守る者を何も持たず、自分の弱さをさらけ出すということは、何を意味するのでしょう。

人は、弱さを人に見せることを最も恥ずかしいことだと思っています。なので、自分を守ろうと強がり、本当の姿をみせないのです。

特に、お金持ちは、力で他者を支配しようとします。相手を人間として扱っていないばかりか、物として扱っているのです。

そういう人に人は心を開くでしょうか。人間の心が暴力をふるう人に向かって開くということは決してありません。人間は強制とか力とかで外からこじ開けることはできないのです。それが人間の尊厳という意味です。

なので、富める者、力のあるものは不幸なのです。逆に、何も持っていない、貧しい者、弱い者は人と触れ合うことしかできません。ゆえに、幸せなのです。イエスは次のよいっています。

富める者力のあるものは不幸である。なぜなら、彼らは愛することも愛を受けることもできない者だから。貧しい者、無力なものは幸せである。なぜなら、弱い者だけが愛を受けることができるから、あるいは、たしゃをあいすることができるから。

新約聖書ルカ福音書6章20~23節

人間の受動性

人間の本質が、傷つき易さ(vulnérabilité)、受動性(passivité)、死すべき者(Sein zum Tode)であるという点が丸裸になった人間そのものなのです。

なので、人間が肉体であるということは死すべきものであるということです。生きるということは、始めから苦しむことを前提にしているからです。

これが、人間の有限性という誰も逃れられない本質が横たわっています。人間が、自分が人間であるという分際に対してややもすると忘れがちになりますが、本質は受動性から一歩も抜け出すことができません。

つまり、自分の心もカラダも自己だと思っていたにもかかわらず、飼いならすことさえできないのです。なぜなら、突然の病や苦しみに襲われたとき、自分のものとして同化できないからです。

当然襲い掛からる苦しみが我々を超えているということによって、自らの無力を自覚するのです。なので、自己を超えた何者かの仕業によって働いているとしか言えません。

それが「超越の指先」とか「絶対の他者」であることです。自分に背負いきれないものが突然襲い掛かるという意味で、背後の他者がいることが理解できます。

おわりに

『ディオゲネス』という裸の男の絵画を通して人間の本質に迫ってみました。人間を丸裸にしてみれば、地位や名誉や財産などで虚飾されていることがわかります。

しかし、人間を丸裸にしてみれば、傷つき易く、死すべき者であるという、自己の力では背負いきれない他者が背後にいることがわかります。

特に、自分が突然、病に倒れたり、不幸が襲い掛かる時に自覚されます。人間の有限性というSein zum Todeというハイデガーの指摘のごとく、時間軸で見てみれば、明確な方向性は明らかです。

背後にいる他者が、指先で指し示しているのです。死すべき存在(Sein zum Tode)であると。我々ははじめから、強固な自己というものがなく、コントロールできない自己の中の他者にある意味飼いならされているわけです。

そういう意味で、ディオゲネスは絶対の他者を乗りこえた者であるといえるのかもしれません。なぜなら、地位や名誉や財産や命までも他者に差し出しているからです。

ディオゲネスこそが、正しい大路を歩むものであり、超越者の呼びかけに答えうるものです。アレクサンドロス大王は、彼と会った後、「ああいうものになりたい」とボソッと家来に独り言をはいたという逸話が残っています。

 

 

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