はじめに
トーマス・ベンジャミン・ケニントン(thomas B.Kennington1856~1916)の絵画『孤児たち』を通して人間の本質について考えていきます。
彼は、イギリスの貧困層の生活実態を見る者の感情を揺さぶる形で描いています。ストリートチルドレンを題材にした絵画は、スペイン画家ムリーリョの影響を多分に受けていたといわれています。
ケニントンの作品は、社会から見過ごされている人々に焦点を当て、疎外された人々や虐げられた人々を題材にあえて選んだようです。
虐げられた人々は、見る者の感情を揺さぶります。なぜなら、弱い者が訴えかける見えない力を感じるからではないでしょうか。逆に、強い者は力に頼り支配するという力学が働きます。なので、そのような人に愛を感じる人はいません。
聖書の中の教えに最も無意味なものが最も偉大であると次のように言っています。
だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。
子どもは社会の中で肉体的にも、社会的な地位の上でも、最も弱い存在、最も小さい存在です。ましてや、400年前の浮浪児たちは最も弱い存在として、虐げられ、差別され、路頭に迷って生活していたのです。
中には奴隷とともに働くものや、路上で命乞いをしてその日暮らしをするものなど、街には多くの浮浪児があふれていました。
当時の浮浪児は、社会の中で最も無意味な者(最も小さい者)とされていたのです。社会階層の最底辺にいる人、子どもはそういう人たちの象徴なのです。
神は子供のように低くならなければ天の国にはいれないといっています。人を疑うことを知らない浮浪児は、開けっぴろげ、エネルギーはあふれんばかり。
目次
- はじめに
- 執着からの解放
- 神の中で生きている
- 贈り物としての存在
- おわりに
執着からの解放
私たちはどうしたら子供のように謙虚になれるでしょうか。大人になればなるほど、いろいろなものに対する執着は大きく膨らんできます。
答えは極めて簡単です。執着を手放すことです。しかし、執着はそう簡単に手放せません。なぜなら、執着は生に張り付いているからです。それをはがすことはできないのです。
たとえば、財産(お金)、時間、場所、名声、評判、職業、人生そのもの、食べ物、好み、衣服、その他身に着けるものなどなど切りがありません。
執着の一切を捨てるということは、生に対する執着を捨てるということにつながります。ハイデガーの語る「死に向かって解放されているか」ということです。
しかし、命乞いをしていつ死ぬかもわからない、小さき人たちを助けることが出来るかもしれません。その時、奇跡が起こります。神の働きとしての愛が生まれるのです。
はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
イエスは、最も小さい者(浮浪児)を私の兄弟と呼んでいました。その兄弟たちをたすけた人たちに「お前たちは、私が飢えた時に食べさせ、のどが渇いた時に飲ませ、旅をしたいときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」といいます。
その様な働きこそ、神の働きです。どうしても執着から離れることができない我々凡人でも、身を低くしている命乞いの浮浪児に施すことはできるかもしれません。
なので、私の働きの中に神が働いているのです。神はあくまでも働きの中に人間を通して働きます。なので、実体としての神などはいません。あくまでも人間の善行などの働きに対して神は動くのです。
神の中で生きている
つまり、われわれ人間は、神の中で生きているということです。そして神とともに動いている、そのことによって存在せしめられているのです。
中世の司祭であるアウグスティヌスは、我々人間は「在らしめられて、在る」といっています。なので、無から造られたもので、「神が自分を存在せしめてくださらないならば、無の内に消えてゆく」とまで言っています。
つまり、無からのものであるとともに「在らしめられて在るもの」である以上、何らかの善きものであることを自覚すべきであるというのです。
在らしめられてあるということは、神と一体であるということでもあります。当然神からも解放されていなければならないということです。
つまり、それは万物の一体であり、他者とも一体であり、神とも一体であるということなのです。イエスはまさにそういう人だったのです。
それが神の中で生きているという事であり、神の神秘を自覚するのはすべて主観的な自分です。それは、神は対象ではない、存在者でもない、ものでもない、無(nothing)であるということに行きつくわけです。
この絵が、神秘性を帯びているのは、私たち自身の神秘性を通してみているからにほかなりません。
贈り物としての存在
私たちは、神と一体であり、他者と一体であるということは、この絵の中の浮浪児と一体であるということです。神からの贈り物である彼らが、小さくされたのは私にされたということにつながります。
なので、この子らが神から意味を与えられ、その光を放つために存在しているということになるわけです。その意味は、「かけがえのない人との関係の中に入れ」という命令が他者から発しているということです。
つまり、「隣人を愛せ」という命令は、神から与えられた命令であり、それは、他者の顔から発せられているとレヴィナスは言うのです。
ということは、理屈でも理論でもありません。この絵からはそういう命令が我々に発せられているのです。それが光であり、神の命令なのです。もう少し具体的に言えば「殺すな」という命令が他者の顔から出ているということになります。
哲学者カントはそれを「定言命法」といっています。他者を道具として、あるいは物として扱ってはならないという命令です。
なぜなら、他者は私たちの把握を超えているということです。他者を理解することはできないのです。理解したと思ったとたんに、その像の背後に隠れてしまうのです。
それをレヴィナスは「他者は不在だ」(adsence)というのです。または、「他者は絶対だ」(absolu)ともいいます。つまり他者とは神の宿る場所であり、働きの場所であるということです。
おわりに
ケニントンの絵画『浮浪児たち』を通して、人間の本質に迫ってみました。子どもは最も弱い者として、ましてや浮浪児は、最も虐げられた者です。
レヴィナスは「他者の弱さが私を呼ぶ」といいました。その意味は、人間は死すべき者であり、その他者との関りによって、はじめて、唯一(unique)なものになるのです。
それが、かけがえのない存在になるということです。そもそも、「私」というものは、他者との関わりなしには「私」というものはないのです。
その関わりにおいて「私」はかけがえのないものとなるのです。他者をかけがえのないものと思って接することで、自分もかけがえのないものになるのです。
その浮浪児たちこそもっともかけがえのないものたちです。なぜなら、社会的に最も弱い者であるということは、神がその子たちの働きの中にいるということです。
なので、かけがえのないものたちと関わることで、かけがえのないものなりえるのです。孤児たちは「絶対なるもの」であり、最も神の働きが宿る場所なのです。
在らしめられて在る者たちの中でも、最も在らしめられて在るものであり、無からのものであると同時に神からの贈り物であるということです。孤児たちの屈託のない笑顔はまさにそれを物語っています。