はじめに
この絵には別題がある。『妻に嘲笑されるヨブ』となっている。実はヨブ記のヨブは、妻子は殺され、家財産までもすべて豪族に奪われている。
なので、ここで妻が登場するのはおかしい。しかし、ラ・トゥールがあえて描いた意味は、亡霊となった妻を登場させ、「それでもあなたは生きるのですか」と確かめているのではないかと推察する。
「あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだらよいのに」とヨブの妻が言う。それに対してヨブは「おまえの言うことは愚かな女の誰かれが言いそうなことだ。われわれは神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないのか」と。
ただ、ヨブがそこに至るまでには、かなりの紆余曲折がある。『ヨブ記』の内容のほとんどは、そのことに費やされているといっても過言ではない。
なので、神を呪い、もだえ苦しみ、さらに多くの試練を受けるのである。自分が正しく全うな人生を送ってきたにもかかわらず、なぜ自分だけこれほどまでに苦しまなければならないのだ。
しかし、このヨブの試練は、人間の傲慢さゆえの試練である。人間ならだれでも起こりえることだ。「なぜ自分だけが」という考えこそが傲慢そのもの。
それがわかるまでは艱難辛苦を味わうことになる。『ヨブ記』は旧約聖書の中に収められたものであるが、いろいろな本が出ているので、読みやすいものから読んでみる価値は十分にある。
ちなみに、わたしは、岩波新書と岩波文庫の2冊を持っている。どちらもそれほど難しくなく、物語風に読める。別に聖書に興味がなくても、キリスト教に何ら関りがなくても十分に楽しめる。
なぜなら、どのような人生を歩もうとも、人生は大なり小なり、銀杏甚句を味わわなければならないように出来ているからだ。それがわかるには、苦労を重ねた境地に達しなければならないのかもしれない。
目次
- はじめに
- 『ヨブ記』とは何か
- 神が定めた秩序
- 他者の二面性
- おわりに
『ヨブ記』とは何か
ヨブは盗賊に襲われる前は、大きな家屋敷と牛や羊を放牧しているほどの財産を持っていた。家族や子供にも恵まれ、敬虔なクリスチャンとして家族同士お互いを敬うという、理想的な家族だった。
ところが、盗賊に襲われ、家族は殺され、すべての財産は没収されてしまう。しかし、こういうことはヨブだけに起こったのではない。誰にでも起こりうることなのだ。
先の、能登や東日本の大地震は、たくさんの命を奪っている。その亡くなられた人の中にも、多くの善良な市民がいたことが想像される。しかし、どうしてこのような方が死んでしまったのかは誰も説明できない。
世界に目を転じてみても、イスラエルとガザの紛争やロシアとウクライナの戦争でも、多くの市民が殺されている。人の命はかけがえのないものであるはずが、いとも簡単にころされてしまうが、これも誰も説明できないのだ。
もし、説明するとすれば、人の欲望がそうさせるといわざるを得ない。戦争はもちろん、自然災害も人間の欲望の産物である。
さて、家財産を失ったヨブはその後どうなったのか。実は災難はまだまだ続くのである。彼は神を呪った。神を恨んだ。当然、誰も恨むものがない時には神しか恨むものがない。
しかし、それがまた神の逆鱗に触れる。頭のてっぺんから足の裏まで皮膚病に侵される。死ぬほどの苦しみが彼を襲う。しかし、「自分には何の罪もない」と神に言い返す。
そして神は言う。「ヨブよ聞け。知恵もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。「おまえは、天地創造の秘密を知っているのか」と𠮟りつける。
とうとうヨブは、自分を退け、神の言葉にひれ伏すしかなかった。「自分は裸で生まれ、裸で死すべき存在である」と。神のように偉くなっていたことに気づくのだ。
神が定めた秩序
神の叱責に対するヨブの最後の平伏は、何を意味しているのか。この世の幸福や不幸は、人間の善悪とは何ら関係がないことがわかる。なぜなら、交通事故や自然災害は、その人がどんな人かは関係なく突然襲い掛かるからだ。
どういう基準かは、人間の範疇にはない。宇宙は神が定めたコスモスであり、永遠不変の法則で出来ている。なので、人間に都合よくできているはずがない。神の秩序と人間の秩序とはなんの関係もないのである。
そのうえで、宇宙創造の産物の1つが人間であるのだから、まったくの受動性の範疇でしか人間の存在はない。人間の本質が、傷つき易さ(vulnérabilité)、受動性(passivite)、死すべき者(Sein zum Tode)であるという帰結に至る。
なので、人間が生きるということは本質的に苦しむということであり、死に向かって時間とともに進んでいくという事実からは、誰も逃れることはできない。
つまりヨブの姿は、人間のすべてに襲い掛かる宿命であり、誰も逃れることができない現実の極端な縮図にすぎません。なので、人間が神の秩序に入ることができないばかりか、苦しみが襲い掛かることから逃げ出すこともできません。
そういう意味で、自分が背負いきれないものが襲い掛かかってきてるのだ。それを、人間はどうにもならない他者に直面しているともいえるし、自己は自己でさえなかったともいえる。
不幸とは、ある意味、自分ではコントロールできないものであり、自分が持て余す制御できない何者かである。それをレヴィナスは、自分自身の内に存在根拠をもたないものであり、自己が支配できない他者に直面していることであるといっている。
他者の二面性
ヨブと妻との対峙は、何を意味するのだろうか。そこには絶対の断絶が存在するのも事実である。妻といえども、犯すべからざる尊厳を持つのである。
その人がいつも思い通りに動くとすれば、その人は他者ではなく、私の道具であり、奴隷であり、私の中の一部分でしかなくなる。
そういう意味では、認識の埒外にあるものであり、「彼方のもの」である。ヨブとその妻との間には、絶対の断絶が存在するのだ。
ヨブの妻が、なぜあなたはそれほどの苦しみに耐えうるのか問いただす。この絵はまさにその核心の場面を切り取っているのだ。
しかしヨブは、すべてのものを失ってようやくたどり着いた境地を暴露する。神の祝福と同時に不幸もいただいているという試練を甘受するのである。
この幸福と不幸こそが、ラ・トゥールの光の闇を強調する絵画に他ならない。光源であるろうそくは、ヨブと妻の顔を照らし、ヨブの悔い改めた顔や手を固く組んだ仕草をも照らしている。
それとは逆に、妻の方の衣装に照らされた後ろは、漆黒の暗闇で描き出され、より一層、ろうそくの光の輝きを強調している。
それは、暴力によって己を押し付けようとする妻に対して、権利も能力も持っていないことを暴き出す。そういう意味では、他者は手の届かないほどの高みにいる。
しかし、一方で同時に、死に曝されたものであることを意味している。かつてヨブは、財産を持ち、社会的地位もあり、能力を持つ力のある者であった。
ところが、実は、死に曝された者として、助けを求めて叫んでいる極限の弱者であるという二面性を見事に表しているのである。
おわりに
ラ・トゥール『ヨブとその妻』を通して人間の本質について考えてきました。正しく生きた人がなぜこれほどまでに苦しむのか。神と人間との関係は絶対者と俗人との隔絶の関係でしかない。
自由を守ろうとする人間は、強欲に満ちた俗人でしかないのだ。神はただ創造主であり、大宇宙の中の人間はその一部に過ぎない。
なので、神と人間との関係は一方通行でしかないのです。俗人が仮に神との関係を問われたならば、欲望を捨てさり、虐げられた者たちとともに歩むことでしかない。それでも一方通行は変わらない。
ちょうど、ヨブの妻がヨブにろうそくの光をともし、なぜ生きるのかを問う場面と同じだ。幸福も不幸もともに神の働きであることを悟るしかない。
人生には、正しい人生も苦難を伴う人生も誰もが等しく訪れるもの。それは神の働きではなく、自己の自由を誇示しようとすることから生じている。神はただ黙って見守るしかない存在なのだ。
なので、人間という我欲に満ちたものに、神の働きがあるとすれば、小さなものになって低みに立たなければ見えない景色であり、働きであるということである。
ヨブの妻が光をかざし、なぜそれほどまでに生きるのかを問う場面は、ヨブの本当の欲望を捨てた姿だ。そこに、神の光を受ける資格があることを教えているようだ。