『人は何で生きるか』から見える生きる意味~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. トルストイの回心
  3. かけがえのない人との出会い
  4. 貧しいものの特権
  5. まとめ

はじめに

何によって人は生きているのかと、ふと考えたことありませんか。生きているから生きているというのが正直な答えでもあります。

でも、何かしら生きている意味があるとしたら知りたくありませんか。

それを真剣に考えた1人にロシアの文豪トルストイがいます。トルストイは『人は何で生きるか』という民話を晩年書いています。

その物語を通して、人は何によって生きているのかの答えがあります。結論からいえば、かけがえのない人との出会いだったのではないでしょうか。

かけがえのない人とはどういう人のことでしょう。たとえば、お金持ち、学歴のある人、美しい人、有名な人などが思い浮かぶのではないでしょうか。

ところが、トルストイに言わせるとまったく逆の人であることがわかります。

たとえば、それは、貧乏な人、病気で弱っている人、身分も低く、助けを求めている人のことなのです。

そういう人に出会うことが、実は本当の意味でかけがえのない人との出会いなんです。そのことによって生きる意味を知ることができ、何で人は生きるのか考えることができるからです。

トルストイの回心

トルストイは男爵の子として裕福な家庭に育ち、何不自由なく過ごしていました。その後『戦争と平和』や『復活』などの著書で有名になり、世界的に名声を得ます。

なので、地位や名誉や財産をほしいままにしていました。ところが、晩年、回心し、本当の幸せを得るものは、無学で、貧しく、素朴な、額に汗して働く、農民や労働者の中にあることに気づくのです。

なぜなら、あらゆる名声や財産を手に入れたころから、精神が病み、本当に生きる意味を考えるようになってきたからです。

それまでは、自分を大事にして、自分には価値があるとか、自分の存在に意味があるとか、自分はすばらしい仕事をしたとか、自分自身を肯定してきたのです。

しかし、本当の価値とは、人のために何か一生懸命やって、自分のことを全部忘れてしまった時に、初めて自分の存在が肯定されるということに気が付いたのです。

なので、トルストイは晩年になってようやく本当の生き方がわかるようになってきたのです。

そこで、今まで書いてきた大作をやめて、本当の意味で誰でもが読んでわかるものを書くことに時間を割きました。それが、『イワンの馬鹿』であり『人は何で生きるか』に結実されたのです。

かけがえのない人との出会い

トルストイは名声や財産を我がものとして手に入れ、人のうらやむ広大な領地を持っていました。

農奴解放令が出るまでは、トルストイも農民を奴隷のように扱い、収穫料だけでなく様々な税を納める義務を課していたのです。

なので、地主はますますその恩恵に甘んじ、農民はますます貧しく、無学で、素朴で、額に汗して働くものとなっていったのです。

ある時、トルストイは大地主の側にいたため、政府から農民調査員に選ばれます。その調査の間、本当に苦しく、明日の食事にもありつけない農民一家を目の当たりにします。

しかしその農民家族は敬虔なクリスチャンで愚痴1つこぼさず、1日の大半を農業に従事し、ただ黙々と暮らしていたのです。

この時、本当に生きる意味を悟ったのです。貧しいものとともにへりくだることは、絶望から生気を取り戻すことだと。さらに自分の精神的病も癒えていくのがわかったのです。

その後自らも財産をすて、一農民になって働くことで、いまだかつてなかったような生気がよみがえってきたといっています。

貧しいものの特権

貧しいものの特権とは何でしょうか。常識では貧しいものはどこへ行っても不幸と考えられています。

では、富める者はどうでしょう。富める者は力を持ち、その力によって他者を支配します。その力は壁となって他者を遮断していまいます。

これに対して、貧しいものは無力です。守るべき地位や財産がありません。他者を頼りに生きていくしかないのです。

まったくの弱者に対しては、他者の善意だけが頼りです。この善意がなければ、容易に他者に傷つけられるのです。

でも、本当の善意のある他者に出会う可能性もあるのです。泥まみれ同士が出会う場ができます。

おそらく、トルストイは特権階級として富と名声の只中にあって、力によって他者を排除してきました。その結果、孤独の中で精神を病むに至ったのです。

ところが、農業調査員に任命されて、貧しい農民の実態を見るにつけ、極貧の中でも、泥まみれになって働く人間同士が本音で助け合っている姿を見て感動するのです。

まとめ

トルストイは晩年、額に汗して働く農民と同じような生活をしていくうちに、精神的病も癒えていきます。

ところが、農民からは、広大な土地を持った大金持ちと揶揄され、言動不一致と非難するものも大勢いました。

そこで、このような偽善的生活に嫌気を指し、自分の領地や著作による収入一切を放棄しようとします。しかし家族から反対され、家出するしかなかったのです。

富める者は力を持ち社会的地位や教養や才能をもって他者を支配します。トルストイも例外ではありませんでした。

当然トルストイの周りには、へつらって利益を得ようとするものばかりが集まり、利己主義者ばかりに囲まれていたのです。

力による支配が壁となって、他者を遮断するのです。このようなものに心を開く者はいません。トルストイはとうとう逃げ出すように電車に乗り、車中で肺炎になり命を落としてしまいます。

力による支配の反動が、孤独死の中に突き落とされてしまった結果なのかもしれません。

人は何で生きるかということを考えた時、常識としてあった家や財産、ましてや教養も兼ね備えた人になるために生きることだったとトルストイも考えました。

ところが、現実は、貧しく泥まみれになって働く者同士が助け合って暮らす中に、真の生きる姿があったことに気づかされたのです。

人は、かけがえのない人と出会うために人は生きているのです。その本当にかけがえのない人とは、富や名声とは真逆の人たちでした。

貧しい農民の泥まみれの中に、本当に豊かな愛情にまみれた神の国を発見したのかもしれません。

※さらに、癒しの哲学に興味をお持ちの方は私のつたない著書を紹介します。是非一読してみてください。


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