はじめに
この少年の絵は、ジュール・バスティアン=ルパージュが描いたもので、『お手上げだ』というおもしろいタイトルがついたので思わず目を引きました。
彼の34歳(1884年)の作で、死の2年前に描かれたもの。なんと36歳の若さでガンでこの世を去っています。
この方の生涯は苦しい生活を強いられ、しかも、印象派の画家からはあまり評価をされていませんでした。ただ、フランス国家の後ろ盾を受けながら、高い評価のもとで活動していたようです。
この作品『お手上げだ』を見た時、少年のあどけなさと、大人びた落ち着いた雰囲気に圧倒されました。しかも、よく見るとぼろをまとったまだ幼さが残る少年です。
原題は「il n’ya pas méche」(手段がない、処置なしだ)という意味のフランスの俗語だそうです。
彼が持っている背中に下げた角笛は、荷船を引く馬を操り、荷船が間もなく到着することを知らせることを閘門の管理者に知らせる荷船係だったことを示唆しています。
このころのパリの少年は、食事をしない日もあったり、体に下着も付けず、靴やズボンは父親の古くなったものを身に着けていました。
さらに、町中に浮浪児が徒党を組み、群れを成して暮らし、うろつきまわり、野宿をし、獲物を探し、時間をつぶし、隠語を口にし、みだらな歌を歌う大人顔負けの無法ぶりだったようです。
この時代、産業革命後の経済成長を背景にたくさんの人々が都会に集まり、親を亡くして住む家がなくなった浮浪児が町中にたむろしていたのです。
なので、衛生状態は劣悪で、仕事を求めて集まった人たちは、低賃金で長時間働いて不潔な貧民窟でひしめき合って暮らしていました。
それでも少年は、路上で明るくたくましく生きていました。心は何の悪げもなく、真珠の心と純潔を持って大人顔負けの仕事をしていたのです。
目次
はじめに
カリスを贈られた者
「人間である」ことの意味
我々の中で働く神
おわりに
カリスを贈られた者
カリス(charis)の語源はカリゾマイ(charizomai)で、好意とか善意、感謝、恩恵などという意味があります。
少年はパイプをくゆらし、悪態をつき、獲物を探し回る街のチンピラ同然でした。しかし、大人も浮浪児も何か新しい時代の幕開けのような希望を抱いていました。
なぜなら、このころのパリやロンドンは、産業革命が進み、人権意識も芽生え、少年たちにも光が差してきた時代だったからです。
ところで、この時代、大人は浮浪児をどう見ていたのでしょう。愛情とかヒューマニズムや同情などというものではなかったようです。
子どもの湧きかえるエネルギーに対して、ほとんどの大人は道志や仲間として対等に接していたのです。
当時のパリの浮浪児の活躍は小説「レ・ミゼラブル」に詳しく出てきます。特に、主人公ガヴローシュは大人たちをも巻き込むほどのエネルギーと行動力で、市民革命の先頭に立つのです。
まさにこの時代の寵児として、あらゆる職業だけでなく、大人が遊ぶような酒場にも表れ、屈託のない笑顔で、誰でも好意的に扱われていたようです。
まるで「カリスを贈られた者」として、感謝の目で、善意の目で、恩恵の目で見られていたのです。
「人間である」ことの意味
よく「あの人は立派な人だ、けれども・・・」と人は人を見て言います。「でも、人としてどうも・・・」ともよくいいます。
その意味するところは、自分の力に頼り、お金の力によって人を動かし、人の心までも、こじ開けて支配するような人のことです。
この社会で生きていくためには、仕事をして生活しなければならない以上、そういう人に使われなければならないことはよくあります。
しかし、「人間である」ことの本当の意味は、自分を守るもの(お金とか武器とか)を何も持たず、自分の弱さをさらけ出して生きるということです。
まさに、19世紀パリの浮浪児たちが、低賃金で重労働を強いられても、たくましく社会に貢献することできたのも、自分をさらけ出して生きるパワーがあったからにほかなりません。
「人間である」とは貧しい人とともにへりくだって生きる、純粋でたくましい彼らパリっ子のエネルギーだったのでしょう。それが多数の貧困にあえぐ大人たちへも伝わっていたのです。
「人間である」とは他者を愛することであり、他者の苦しみをともに担うということです。人間は貧民窟の中にあっても、自分の苦しみが他者の苦しみを共に担うものとして自覚されてはじめて、他者との交わりが生まれるのです。
我々の中で働く神
ところで、聖書フィリピ人への手紙にパウロが次のように言っています。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
あなたたちが働いているときも、欲求しているときも、神があなたの中で働いているという意味です。たとえば、台所仕事でご飯を作ることは、その行為自体が神の具現であり神の栄光なのです。
浮浪児が、荷船係をやっていても、漁師をやっていても、煙突掃除をやっていても、そのすべてのことをなしているのは神だということです。
神が我々の中にいるとは、神はあくまでも愛の働きです。なので、人はこの働きが現実化する場所なんです。
神がどこにいるかは誰もわかりません。この世にはいないのかもしれません。しかし、人が人に感動して涙を流しているとき、その働きこそが神なのです。
確かにこの時代の浮浪児たちには、光が当たりません。どちらかというと、低賃金で働く労働者として、あるいは、奉公人になって親方から奴隷のようにこき使われていたのが現状です。
しかし、19世紀のパリは、幾度が革命の舞台になっています。ガヴローシのように実際に蜂起に加わり、民衆の側に立って権力と戦ったのです。
そうした国を守ろうとする群衆の心は1つとなり、とても強い絆で結ばれていたことが想像されます。そこには大人も子供もなく、愛の働きがそこら中にあったに違いありません。
そこでは、不良少年といえども「カリスを贈られた者」として、少年たちにも光が当たり、神の働きに満ち満ちていたことでしょう。
おわりに
ジュール・バスティアン=ルパージの『お手上げだよ』を通して、この時代の少年のたくましさと明るさについてみてきました。
そのことを通して「人間である」ことの本質について考えてきました。人間は自由であればあるほどに、社会の中で好きなように生きることができます。
ちょうど19世紀のパリの浮浪児のように、なんの悪げもなく、盗みを働くもの、酒場に出入りする者、獲物を探し、時間をつぶし、まるでどろの中を這いずり回るような生活をしていたのです。
しかし、貧しく、虐げられて、小さくされた者に対して神が現れるといいます。神の働きは見えませんが、光の当たる場所には、神の働きが満ち満ちているのです。
その人間が神の働きの担い手として、愛の働きをそこに具現化するときに、光が当たる場所となって、神が現れるのです。
まさにこの絵は、船荷係の少年に光が当たり、神の現われが具現化していることを意味しているのかもしれません。その証拠に、屈託のない明るさと、物おじしない笑顔と、絵全体の明るさと、少年の顔に光が当たっていることからも伺うことができます。
神は天地万物の創造主ですから、自分自身も他者も世界全体も瞬間ごとに神の現われる場所として啓示されています。なぜなら、一人ひとりの主観として何らかの経験がそうさせているのです。
荷船係の少年は、この瞬間を切り取るならば、神の具現化の世界にいるのかもしれません。なぜなら、その光輝く瞬間を絵に描いたに違いないからです。