『光あるうち光の中を歩め』にみる生きる意味~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 光の中を歩め
  3. 暗闇に追いつかれないように
  4. 他者に対する奉仕
  5. まとめ

はじめに

マタイによる福音書に毒麦のたとえ話があります。

また、ほかのたとえを彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

— マタイによる福音書13:24–30(口語訳)

私たち人間も同じです。悪い人と善い人は一見区別がつきません。でもよく考えてみてください。本当に悪い人なのでしょうか。それとも善い人といわれる人は善い人なのでしょうか。

ところで、罪人と善人あるいは悪人と善人との違いって何でしょう。かつて親鸞は、悪人こそ救われると説いています。

その意味は、人間の本質には善と悪が共存しているのが本当の姿だという意味です。なので、放っておけば次第に悪に傾むくともいわれます。

なぜなら、「無は悪への傾き」とアウグスティヌスはいっており、死にむかっている人間は、ややもすると悪へと向かいかねないというのです。

なので、人間は本来罪人です。どんなに聖人君主の顔をしていても、罪を背負って生きているのです。

「毒麦のたとえ」はだれが善で、だれが悪かは一目ではわかりません。一つ間違えれば誰でもが悪人になるのです。

光の中を歩め

聖書の中に、姦通罪かんつうざいで捕らえられた女性を巡って、イエスと律法学者と対決する場面があります。

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい。

ヨハネによる福音書8-7

当時の法律では姦通罪は死刑という重罪です。生きたまま石を投げるという残酷なものでした。

イエスは罪を犯したことのない者は石を投げろといいます。ところが、周りにいたものは次第にいなくなります。

この出来事でもわかるように、この世に罪を犯したことのない者は一人もいないということです。

なぜなら、すでに罪を背負って生まれてきているからです。赤ちゃんに罪はありませんが、我執を持っている以上、我を通します。そうしないと生きていけないからです。

ひるがえって、大人はといえば、金欲、名誉欲、傲慢や高ぶる者になります。『光あるうちに光の中を歩め』の主人公ユリウスがそうであったように、自分のためにしか生きられないのです。

同年代の親友パンフィリウスは熱心なキリスト教徒です。人間の目で見れば欲望の中を生きることになりますが、神の目を通して生きているため、欲望を捨てて、人のために生きるのです。

人間の目で見れば、暗闇くらやみで真実は見えません。ところが神の目で見れば、光の中を歩むがごとく、自分がどこへ行けばいいのか迷いがありません。

このように、人間は、迷い、悩み、苦しむ存在として、自由が与えられているのです。神は最初からその様にお創りになったのです。

なので、苦しみから逃れることはできません。ユリウスがそうであったように、晩年は光のうちに歩むようになります。

暗闇くらやみに追いつかれないように

ここでいう暗闇とは何でしょう。人間には、罪と悪が共存しているといいました。その罪と悪こそが暗闇です。

ユリウスのように我欲に満ちて生きているうちは、まさに暗闇の中を歩くようなものです。いつ災難が降りかかるやもしれないのです。

なぜなら、傲慢や高ぶる者は、自分の力によって人を傷つけるからです。たとえば、盗み、貪欲、詐欺、好色、不品行などすべて人を汚す行為です。

自分の力だけに頼るのは、人を支配する力以外の何物でもありません。ややもすると人間の持っている暗闇の部分に追いつかれてしまうのです。

暗闇に追いつかれないように、光の中を歩まなければ、わざわいはそこら中にあるからです。

では光の中を歩むとは何でしょう。ちょうど『よだかの星』の最後によだかが星になる時の状況に似ています。

夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山焼けの火はたばこの吸殻すいがらのくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きました。
寒さにいきはむねに白くこおりました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。・・・それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいまりんの火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)『よだかの星』宮沢賢治

よだかは空への憧れから昇天し星になったのです。ちょうど自分が生きているのか死んでいるのかわからないといった我欲がまったくなくなった時、光の玉となりました。

善いことは、姿を見せません。善行だけを残して自分は完全に姿を消す生き方のことなんです。

それが神の目からみた世界であり、暗闇でなく、光の中を歩むということです。

他者に対する奉仕

「上に立つものはしもべになれ」とイエスは言っています。

最も自分を幸福にするためには、とにかく欲望を断つことこそが肝心であり、なかでも、一番偉い人は、仕えるものになれといっているのです。その行動こそが光の中を歩むものになるということです。

暗闇に歩くものは、傲慢や高ぶる者のことです。なぜなら、人間の目で見ているからに他なりません。そうでなく、神の目で見ることは、ベクトルを自分に向けるのでなく、反対方向に向けなければならないのです。

なので、他者に力を降り注がなければなりません。それも、もっとも貧しいものとともにへりくだる以外にないのです。

なぜなら、自分に向かう力は支配以外の何物でもないからです。しかし、この支配欲は無くなりません。生きている限り、人間は欲望とともに過ごさなければならないからです。

なので、他者は奉仕する以外にその関係はなり立たないのです。しかし、他者に向かう運動は決して自己満足には到達しません。他者はあくまでも「憧れ」以外の何物でもないからです。

まとめ

晩年、トルストイは自分の人生が幸福だったのか自問する日々が続きます。あり余るお金と名声や財を築いたにもかかわらず、精神は病み、孤独のうちに死を待たなけれればならなかったのです。

一方、農民は貧しい暮らしにもかかわらず、肩寄せ合って幸福そうに暮らしているのを見るにつけ、真の幸せは人のために尽くすことにようやく気付くのです。

しかし、生きていくことは、欲望の中で生きていく以外にないのです。そこには自己満足だけが残ります。かといって、他者に奉仕する生き方には、決して自己満足に終わることはないのです。

なので、他者は「憧れ」以外にないのです。その憧れの行為とは奉仕以外にありません。それも一方通行の奉仕であり、決して見返りを求めない生き方です。

というのも、絶対に他者は、自分の中に取り込めないからです。そういう意味では、善意を捧げ続ける以外にありません。他者は絶対的な高みに君臨し、到達できないからです。

最後に、他者とはどのような人のことだと思いますか。決して好意を示してくれる方ではなく、最も嫌いな人のことであり、出来たら関わりたくない人なのです。

人生とはそのようにできています。自分の思うようにはけっしてなりません。なので、人生は苦しいのです。人には、絶対に打ち明けたくない辛酸をなめるような労苦を背負って生きているのです。

『カタツムリの悲しみ』という童話があります。自分だけがなぜこんなに悲しんだろうと思い、他のかたつむりに聞きまわったあげく、だれでもが悲しみを背負って生きていることに気づくのです。

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