目次
- はじめに
- 被造物であることの掲示
- 自己は自己でさえない
- 悔い改めることの意義
- まとめ
はじめに
グリム童話には、聖書の教えが詰まっています。特に今回は、『聖母マリアの子供』からそれを読み解いてみたいと思います。この物語はマリアに本当のことをいわないばかりに、自分の子供を捕らえられてしまうというお話です。
キリスト教では悔い改めの祈りがあります。
もし、罪を犯したことがないというなら、それは神の偽り者とするのであって、神のことばは私たちのうちにない。
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第一の手紙1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について——
大司教アウグスティヌスも著書『告白』で自分の罪を告白しています。
私は弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。意志することもできません。それどころか、何が善であるかを、知ることもできません。どうかあわれんでください、みちびいてください。
アウグスティヌス=山田晶1996:40
人間は、最後は祈るしかできません。このことすら神のあわれみなしには何もできないのです。罪を犯してなお救ってくださることをアウグスティヌス自身自覚するのです。
いや私は罪なんか一つもありませんという人は誰もいないとイエスは言います。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がこの女に、まず石を投げなさい」と。
そして、周りにいた人たちは1人2人と立ち去り、そして最後に残ったのは、イエスと罪を犯した女だけが残ったのです。
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節
私たち人間の内には人を断罪するだけの力はないのです。判断できるのは、律法だけです。裁判所の宣誓もしかり。一般的なフレーズは以下の通りです。
”I SWEAR BY ALMIGHTY GOD THAT THE EVIDENCE I SHALL GIVE TO THE COURT IN THIS CASE (APPLICATION) SHALL BE THE TRUTH THE WHOLE TRUTH AND NOTHING BUT THE TRUTH, SO HELP ME GOD” (意訳: “私が提出する証拠は、偽りのない真実であり、真実以外の何ものでもないことを神に誓います。”)
日本では、宣誓は良心に誓いますとなっていますが、一般的には神に誓いますになっており、同じ意味だと思います。
つまり、人間にできることは、ごく限られているということです。自分が一番正しいという思いこそ、自惚れであり、傲慢そのものの高ぶる者なのです。
人間は自己満足の安らぎにいつまでも浸ることはできません。なぜなら、自己は時間とともに解体して無になるという、まったくの受動性だからです。
被造物であることの掲示
私たち人間は、自由な自分を支える自分を見つけることができません。そこは闇であり、無であり、不在でしかありません。
なぜなら、無から造られたということが根源的な受動性であるという本質を持っているからです。なので、病気やケガなどで苦しみことにおいては、自分の力ではどうしようもない限界があることがわかるのです。
ところで、人間は生まれた瞬間から老化に向かっているといわれています。最終的には自己が解体するするという現実に対して、だれも抗うことはできません。それが被造物であることを掲示しています。
ガンなどは、自分に背負いきれないものが突然襲い掛かるのです。その苦しみそれ自体が絶対な他者であり、自己を超えた何者かが働いているということです。
つまり、人間の本質が、傷つきやすさ、受動性(passivité)、死すべき者(Sein zum Tode)であり、生きるとは死に向かって進んでいくことなのです。
時間とは存在の只中で、老化として我々の中を流れていくことなのです。これが人間の有限性という本質の姿です。
自己は自己でさえない
ところで、グリム童話『聖母マリアの子供』ですが、娘が嘘を繰り返したばかりに、子ども取り上げられてしまうのです。最後は火あぶりの刑になるのですが、その寸前に本当のことをいうのです。
なぜ娘は本当のことをいえなかったのでしょう。他者とは自分の中に同化できないものですから、当然それが襲い掛かる恐怖に娘はたじろぐのです。
なので、自己だと思っていた自己とは自我でしかないことに気づけなかったのです。本当の自己は、自我の奥深くにあり、超越、あるいは、絶対の他者なのです。
娘の自我は、すでに「超越の指先」によって見破られていたのです。そのため、何回に渡ってうそをついたところですべて神は見通していたため、罰が与えられたのです。
娘は自己が自己でさえなかったことにようやく3回目のうそで気が付きます。それも、火あぶりの刑にあって、焼かれる寸前に、本当のことをいうのです。
「はい、マリア様が開けるなといった扉を開けました」と叫びます。本当のことをいったと確信したマリアは、悔い改めることの大切さを説いたのです。
悔い改めることの意義
なぜ人間は嘘をついてしまうのでしょう。自我がそうさせるのです。自分は一番美しいとか、自分が一番正しいとか、すべて自分を最優先に考える高ぶる者だからです。
しかし、はじめから強固な自己というものがあって、その自己が自我を突き動かしていると思うようになります。ところが、自己が苦しみによって蝕まれて、解体していってしまうことは、自己が自己でさえなかったことを自覚するに至るのです。
そういう意味で、自分がコントロールできないものが、自己を持て余すもの、それが、自己の中にある他者だということです。
人間の自己満足の安らぎから引きずり出すのです。突然の不幸とか、災いだとか不幸は、自己が支配できない他者に直面している証拠です。
そういった欠陥を伴う自己こそが、ほんとうの自己であり、その自覚させるものこそが自己を持て余す他者なのです。なので、悔い改めることで、知恵とともに謙遜を学ぶことができるのです。
傲慢や高ぶる者を神は最も嫌います。他者と共に存在するとは、喜びや苦しみは他者と連帯していることに気づかせる通路になるのです。
そのことによって、悔い改めは、自己が最も弱い者、醜いものであるということを現しているのです。
まとめ
グリム童話『聖母マリアの子供』を題材に、人間の本質に迫ってみました。悔い改めることは人間には必要不可欠なのですが、なかなかできないのが現実です。
なぜなら、自己の前に自我があるからです。この自我は、傲慢や自惚れを宿しているからです。なので、時として、高ぶる者に支配するものになるのです。
その根本には、自我という力が働くのですが、自我は本当の自己ではないことを自覚しなければならないのです。ややもすると、自我が本当の自己のように錯覚し、自分の力に頼ってしまうのです。
自分の力に頼るとは、美しくなりたい、金持ちになりたい、もっと偉くなりたい、などはすべて人を支配する力です。
このことに気づくと、自分に頼らない生き方がわかるようになるのです。それは他人に頼らなければ生きていけないことの自覚です。
貧しいものとともにへりくだることでしか自己は発見できません。なぜなら、自己事態自分には見えないからです。鏡に映った自己はすでに亡骸です。つまり自己とは、瞬間瞬間の働きにしか見いだせないものなのです。
この物語のマリアとは神であるだけでなく、働きにおいて、本当の自己であり、娘そのものなのです。もうすでに、罪は許されているのです。あとは自己が自我に気づくだけです。マリアはそれをずっと待っていたのです。