ミレー『落穂拾い』から見える人間の本質~超哲学一歩前~

哲学・倫理

はじめに

有名なミレーの『落穂拾い』です。ミレーは貧しい農民にスポットライトを当てた絵画を多く残しています。

原題の『Des glaneuses』は「拾い集める人」という意味です。貧しく生活に困窮した下層階級の女性が、畑に残っているわずかな麦を拾っています。

当時は、貧しい寡婦や貧農の権利として認められた慣行でした。この慣行は旧約聖書の申命記の中にあります。

あなたが畑で刈り入れをして、束の1つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

申命記24章18-19節(コリント人への手紙第一 8章)

「人間である」とは存在欲求に基づいて生きるということです。なので、食べて、寝て、活動してを繰り返し、自己を実現していくということです。

なので、当然、力によって人を支配するということが起こります。それが、自己保存と自己主張と自己拡張がひしめき合っている世界が存在の世界です。

ところが、神の考えは人間とは真逆です。最も弱く虐げられた者こそが最も善く生きる最高の生き方(最高善)であるといいます。

仮に、強い者だけが世界に君臨すれば、やがてこの世界は滅亡します。なぜなら、強者が弱者を食いつぶすという連鎖の中で、やがて強者だけが残り、強者同士が共倒れし、誰もいなくなることが明白だからです。

本当の幸せは、この世に生を受けたもの同士が、様々な形で支え合って生きていくしかありません。

なので、『落穂拾い』は「人間である」ことへの警鐘でもあるのです。

目次

  • はじめに
  • やましさの意識
  • 人間の偶然性
  • 愛を受けうるもの
  • おわりに

やましさの意識

このように、人間として生きるということは、エゴイズムと自己犠牲という矛盾した2つの生き方の緊張の中で、いつもその緊張に苦しみながら生きるということです。

エゴイズムを全く否定することはできません。なぜなら、存在欲求こそが人間の本当の姿だからです。

人間は生きるためには自己実現を目指し、お金儲けをして食っていくという行為を繰り返さなければなりません。そういう意味では、エゴイストという宿命を背負っているのです。

一方で、自分だけでは生きていけないために、自己犠牲を強いられます。

このように人間は、自己犠牲と自己拡張という矛盾の中で生きるしかすべはありません。そうした自己矛盾の中で生きていくということは、「やましさの意識」をもって生きていくということです。

そのやましさの意識とは、「すみません」という意識を持って生きていくということなのです。もしも、「すみません」という意識などなく堂々と胸を張って生きている人がいれば「いかがわしい人」だということを証明しているようなものなのです。

ところで、この『落穂ひろい』の絵をよく見れば、その背景は山と積まれた麦と、たくさんの農民がうっすらと描かれ、豊かな収穫とは対照的に、貧しく苦しい寡婦を前面に描くことで、その対比がよりめいかくになるのです。

背景がうっすらと描きだされている中で、忙しそうに働くのは豊かな農民です。その前面に映し出された寡婦は「うしろめたさ」さえ感じているよう見えます。

しかし、人間の本質から見れば、裕福そうに見える背景に描かれた多くの農民も、前面に描かれた寡婦も同じ人間として「やましさ」の中で働いているのです。

人間の偶然性

人間は生まれながらに、能力の差があり、生存した環境などの条件に違いがあります。しかし、それは運命的、偶然的なだけのことです。それを背負って生きていく以外なく、きわめて受動的で弱い存在です。

つまり、自分の存在は偶然によって支配され、しかもその存在は贈り物としてであり、能力もしかりです。そういった意味では、さまざまな人間の寄せ集めでなり立っているのも事実です。

なので、その違いを本当に理解するためには、それこそ地を這うような苦労と時間を重ねなければ、人間には理解できないことなのです。

したがって人間は偶然によって生まれ、偶然によって生かされているのも事実です。なので、能力の違いが生まれ格差ができるのは当たり前です。

たとえば、男女の違い、体力の違い、知力の違い、文化の違いなどなど、たくさんの違いが厳として存在します。

なので、当然差別や偏見などが生まれます。しかし、これは最初からその様に偶然として与えられているのです。

なぜそのような偶然が最初から仕込まれているのでしょう。結論から言うと、そのような違いによって、様々な問題が生まれ、それを乗りこえなければ、本当の幸せはは来ないということを人間にわからせるためです。

非常に残念ですが、そのために戦争や犯罪が繰り返されてきたことも事実です。たとえば、『落穂ひろい』のように、貧しい者のためにそっと救いの手を差し伸べることも人間の知恵です。

たとえばその逆で、貧富の差は歴然としており、金持ちは、王様のように城壁を囲って暮らす世の中であったなら、ほんの少しの金持ちと、たくさんの貧乏人が生まれてきます。

愛を受けうるもの

なので、金持ちはいつも自分を守ろうとして、弱さを決して見せようとしません。これこそが、金持ちが不幸であることの原因です。

なぜなら、金持ちは、それを武器にして人を支配するからです。力は愛と真逆のもので、愛を受けることも愛することすらできないのです。

逆に、貧しい者や弱い者だけがなぜ愛を受けることができるのでしょう。なぜなら、貧しいがゆえに、弱い者同士が肩寄せ合って暮らしていく以外に生きる術がないからです。

なので、貧しい者は幸せなのです。彼らは愛することも、愛を受けることもできるのです。あるいは、他者を愛することができるです。

したがって、富める者、力のあるものは孤独という地獄の中にいるのです。そこからは一歩も出られないという自ら作った「檻の罠」にはまってしまうからです。

もう一度『落穂ひろいの』絵を見てみれば、背景にうっすらと見える刈り場で山と積まれた麦を収穫している大勢の農民と、少し離れて監視しているのが富める大地主の姿です。

彼は決して交わろうとはしません。ただ監視するのみです。反対側にも馬に乗った人も同類で、指をさしている様子がうかがえます。少しでも遊んでいるものがいれば罵声を飛ばすのです。

おわりに

ミレーの『落穂拾い』を通して人間の本質に触れてみました。3人の寡婦は最も貧しい最下層の人達です。この時代ほぼ人間として扱いを受けていなかったものと思われます。

その背景に、多くの小作農民と地主の金持ちが離れて監視しています。多くの小作農民も決して裕福な暮らしではありませんが、いくらかな食いぶちをもらい、まずいい暮らしを強いられていたのでしょう。

ただ、それぞれの身分は偶然の産物です。環境や男女差や貧富の差や能力の差などは、自分が努力して得られるものではなく、最初からその様に定められているのです

しかしなぜ、そのような偶然を神はこの世に送ったのでしょう。結論から言えば、おそらく、能力の差がなく、能力の高い者同士だったら、助け合いというものが生まれなかったでしょうし、殺し合いの末に人類は滅亡していたでしょう。

なので、貧しい者、最も虐げられているものは、人と人が触れるくらいに親密でなければ生きていけないのです。当然そこには愛が育まれることは自然な成り行きなのです。

ところが金持ちはどうでしょう。力で支配して、自分だけが裕福になるという構図です。増々孤立し、誰からも相手にされず、孤独の中で死を迎える以外にないのです。

この『落穂拾い』の寡婦3人は、最も貧しい、最も虐げられた人たちですが、人と人が触れるくらいに助け合う環境にあるはずです。

そこには自然と愛情が育まれ、貧しいけれど心は豊かなはずです。それが証拠に、落穂を拾う手や顔から想像される目の視線は、けっして弱弱しくない、きりっとした労働者の姿かたちではないでしょうか。

そこには「やましさ」の意識は微塵も感じられないから不思議です。やましさは富める者の力でもぎ取ろうとする傲慢さの中にこそ巣くうものなのではないでしょうか。

 

 

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