はじめに
ミレーの『種まく人』は、聖書(マタイ福音書)の「種まく人のたとえ」が題材になっています。
見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
絵の中の男性は、肩から、種がずっしり入った種袋をぶら下げています。男性はその種袋から麦を力強くまいている様子が伺われます。
右側の遠方には、牛を使って地面を耕す人がいます。この一瞬の風景は、農村の辛い労働と勤勉さが伺われます。この高貴な種まきは、聖書「種を蒔く人」のたとえです。
聖書でいう「種を蒔く人」とは種は神のことばです。その種には大きな力があることを人間は知りません。神のことばよりも、土地のことばかりを見をみけてしまうのです。
それは、地位や名誉や財産のことです。欲のある人間は、目に見えるものばかりを追い求めて、苦労するのです。
しかし、神は見えませんが、誰に対しても平等に光を当て、いのちを与え続けているのです。それが証拠に、土にまかれた種は、大きく育ちます。私たちが眠っている間も神の力が働いているからです。
神の中で生きている
神は我々一人ひとりから、遠いところにいるのではありません。天を仰いで祈るようなものでもないのです。我々は神の中で生きているのです。あるいは、生かされているのです。
それが証拠に、我々が生きて動いている、そして存在しているからです(en autói gar zòmen kai kinoumetha kai esmen)。
私たちは、日常、驚くことが多々あります。たとえば、雷や地震に対して、人類が生まれてから、今まで、その驚きは何ら変わりません。
我々が存在していることの神秘がそこに隠されているのです。在ることの不思議です。本来、無からのものであり、在らしめられて在るものだとアウグスティヌスはいっています。
何もないところのものが、突然世界に投げ出されて在ることの不思議。つまり、自分が何者かを選ぶ前に、既にここに投げ出されているのです。
それを、アウグスティヌスは大いなるものに在らしめられて在ることが極めて重要だといいます。しかも、ただの無からのものではないところに、神秘性とかけがえのない存在として自覚する必要性を説いているのです。
地獄は一定すみかぞかし
この言葉は、浄土真宗の親鸞聖人が書いた『歎異抄』に書かれている言葉です。自分はどんなに修行を積んでも地獄に落ちる運命にあり、それこそ、そこが住処だと悟るに至る言葉です。
自分の力で生きることこそが我欲であり、罪深さです。なので、神の力によって生かされていることこそが、本当に生きることができるのだとする教えです。
神の中で生きているという、聖書の教えと同じことをいっているのです。人は生きている限りは、労苦が付きまといます。
順風漫歩に過ごせる人生などというものはありません。毎日が地獄といっても過言ではないのかもしれません。しかし考えようによっては、地獄こそが住処だと思うと、今の労苦にたえることができるのではないでしょうか。
それほどまでに、業を持つ自分に対しても、神の力が働いていると感じることがあります。そのとき人は、哀れみを感じるのかもしれません。
神からの贈り物であるからこそ、在らしめられて在る存在として、いつも、大いなるものに支えられているのです。そういう考えに立つと、人は、勇気と希望が湧いてくるから不思議です。
人間の受動性
人間の本質が、傷つき易さ(vulnérabilité)、受動性(passivité)、死すべき者(Sein zum Tode)であるという点です。
なので、生きるということは、始めから、本質的に苦しむということが内包されているのです。生きるということ自体が我欲そのものなので、欲望と無欲のせめぎあいが人間社会です。
時間とは私たちの真只中で、老化してゆく姿そのものです、それこそが、我々の体の中を流れているのです。次第に弱くなって、最後は死ぬのです。
この喪失と老化と病気という出来事は、だれも逃れることのできない人間の本質的姿です。このように、人間は、自分を超えたなにものかに飼いならされているとしか言えないのです。
それこそが、「絶対の他者」であり、「超越の指先」であるということです。自分が背負いきれない他者が、絶対の力によって蝕まれていくのです。
そういう意味では、自己は自己でさえなかったということが、人間にわかるということです。人間の分際では、超越を指し示す大いなる力に適うはずもないのです。
おわりに
ミレーの『種まく人』から読み解く人間の本質について考えてみました。人間の本質が傷つき易さ、受動性、死すべき者であるという点が種をまくという神の行為からわかってきました。
具体的には、人間には逃れることができないことが多々あります。病気や自然災害だけでなく、時間軸に従って老いていく事実は避けることができないのです。
しかも、生きることは欲望と切っても切れない関係にあるのです。なので、生きることは苦しむことにつながります。その苦しみこそが「地獄は一定すみかぞかし」なのです。
天国も地獄も生きている現実世界にあるからこそ、逃れることはできないのです。なので、そこが住処だと思えという親鸞の教えにつながります。
豊かな土地にまかれた種は、たくさんの実をつけることが約束されています。その豊かな土地とは人間の欲望を抑え執着から解放することで生まれる知恵です。
神の力から逃れることができない人間にとって、神とともに歩むことこそが、宇宙と一体となった人間の本当の姿です。
「地獄は一定すみかぞかし」は、私たちの生活そのものなのです。神の働きで、そこは天国にもなれば地獄にもなるということです。
たとえば、人生には選択するという分かれ道が沢山あります。しかし、どちらを選んでも、どちらに転んでも結果は同じです。なぜなら「地獄は一定すみか」だから・・・。