目次
- はじめに
- 尊い捧げもの
- 超越への指先
- 神の働きの場
- おわりに
はじめに
ジャン=フランソワ・ミレーは19世紀のフランス画家です。『種まく人』や『落穂拾い』で有名な、農民画として知られています。
特に『羊飼いの少女』はパリ万国博覧会でも好評で、巨匠の名声を確立したともいわれています。
ミレーは都会人が満足するような絵ではなく、働く農民の生活に関心が強く、真摯に観察したところにミレーの独自性があります。
彼が極貧の中で絵を描き続けたその原動力は、農家への哀愁だったのではないでしょうか。というのも、農家の長男として生まれ、跡継ぎを期待されながらも、画家を目指したことが生涯尾を引いていたのではないでしょうか。
彼は、画家になり始めた当初は、売れる絵を描くことに専念していたのですが、様々な誹謗中傷のなか、生活は苦しくなるだろうが、二度と裸体画を描くまいと心に決めたのです。
なので、自由に心の思うままに描こうと決意し、田園をテーマとした作品に向かったといわれています。
特に、彼の生家は、ノルマンディ地方で貧しくとも清貧に暮らす土地柄と、敬虔なクリスチャンである家族に多大な影響をうけたとされています。
そんな中で、彼は、若い時は、農家の極貧生活がイヤだったことを述懐しています。しかし、本当に最も貧しいのは私の心だったことを晩年悟るのです。
彼は画家という仕事は、功名心とも無縁の労働であり、貴賤を問わず、人間が想像した最高の行為であるという言葉を残しています。
尊い捧げもの
そういう意味で、彼にとって『羊飼いの少女』は、「尊い捧げもの」だったのでしょう。なぜなら、最も弱い者、最も貧しい者、最も虐げられた者こそが羊飼いだという動機で描いたからです。
神は羊飼いであると聖書では言っています。なぜ羊飼いなのでしょう。羊はとても無力であり、群れから離れてしまうことは死を意味するからなのです。
人間も羊も同じようにとても弱い動物です。なので、羊飼いが必要なのです。聖書では、人間の羊飼いは神だと教えています。
それに関し、聖書にこんな言葉がります。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴う。魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。
詩篇23:1-3節
ミレーの絵はこの精神を訴えていたのではないでしょうか。貧しい者、無力な者の中に神は宿り、弱い者だけが愛を受けることができるのです。
この絵に目をやると、羊飼いである少女は、晩秋の秋空から顔お出す太陽に、逆光を浴びて、少女の顔はぼやけているように見えます。
本当は羊毛を編んでいるんでしょうが、少女はまるで祈るようなしぐさで、「羊飼いは神様である」ことを具現しているようにも見えます。
超越への指先
人間はなぜ導き手が必要なのでしょう。それは、やがて弱さを自覚するときが来るからです。苦しみが襲い掛かるからです。なぜなら、その「超越への指先」こそが死を指し示すことだからです。
「超越への指先」とは「自己を超えた何者か」であり、「絶対の他者」が自己の根底にあるということです。
そのことの自覚が、自分の力では対抗できない大きな力が、他者が襲い掛かるというよりも、自分の中に同化できないものが内在しているということです。
自己は実は自己でさえなかったということが、苦しみとともにわかるということです。その最大のものが死でもあります。生物学的にも、すでに細胞の中に死が仕込まれているのです。
それが「プログラムされた細胞死」ということで、あらかじめ「死」が組み込まれています。体を構成する細胞は常に古いものから新しい細胞に置き換わっているからこそ、健康を保つことができるわけです。
細胞レベルで見れば、何度も分裂を繰り返し、その繰り返しでできた傷が蓄積し、壊れた状態で増え続けていきます。それが老化であり、細胞は増殖できなくなった時が「死」ということになります。
もう一度『羊飼いの少女』を眺めてみれば、「死」への恐怖などは微塵もありません。それは、晩秋の静寂の中で、すくっと立ち尽くす少女の凛とした姿と、羊たちの穏やかな姿は、夕映えの逆光とともに、神々しささえ感じることができるからふしぎです。
それは、ミレーが極めた余分な要素を極力排除することで、少女の清らかな姿と美しい背景の対比が見事に醸し出しているからなのかもしれません。
かりに、聖書でいう、神は羊飼いであるとしたら、少女は神のような存在であり、羊はか弱い人間のような存在であります。「超越へ指先」としての羊飼いは、光を指し示す導き手として凛と立っているからなのでしょうか。
神の働きの場
自然には秩序や法則があります。人間を含めて自然的な世界は、すべてに神の働きが自律的に動いていることがわかります。その証拠に、大地に種をまけば芽を出し成長するように、春になれば、かってに花が咲くからです。
なので、自然には秩序や法則があることがわかります。花が咲くとか、稲が実るとか、雨が降るとか、これらはみな自然の法則にしたがって、自然自身の力で起こっているわけですが、同時に神の働きでもあるわけです。
この絵が美しいのは、草原を食む羊や陽光に反射した自然の静寂さにあります。風景はすべて自然の力によってそれぞれが自律的に成長を繰り返しています。神の働きでもあるために、さらにその美しさが輝くのです。
まるで時間が止まったような静寂と沈黙の世界は神への祈りの世界を演出しているようにも見えます。ミレーの並外れた力量を見事に映し出されているのです。
というのも、ミレーは生活費を稼ぐための単なる商品としての絵画ではなく、自分が納得するまで貧しい農民と向き合い、神と祖先への感謝の祈りを込めたものだからです。
彼が絵と向き合うときは、功名心とも無縁の労働であり、貴賤を問わず、人間が想像した最高の行為であるという姿勢で臨んでいます。
おわりに
彼の絵には神々しささえ感じます。それは彼が長年養った独自の技量にあります。特に余分な要素を極力排し、少女の清らかな姿と美しい背景との対比は見る者を圧倒します。
なので、細かいタッチよりも全体をぼかしているため、顔の表情の詳細がわからないためにより一層、やわらかく、敬虔で厳粛な雰囲気を醸し出しているのです。
ミレーの絵画は、農民の尊厳と農作業の美しさを捉えることが特徴です。と同時に神の働きを随所にちりばめられていることで、より厳粛性がでるのです。
というのも、羊は最も弱い者の象徴であり、そのための羊飼いは、導き手として神に例えられているからです。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。(イザヤ書 40章11節)
神は、最も弱い者、最も虐げられた者、最も小さくされた者たちとともにいるということです。その象徴が、羊飼いであり、羊なのです。
羊こそ人間であり、弱い者なのです。その弱い者のために神は羊飼いなのです。人を救うもの、人を癒すもの、病んでいるものを癒すための者です。
なので、羊は進んで羊飼いとともにあります。愛の中にあるものは、羊を集め、慰め、強めるのです。
ミレーの『羊飼いの少女』は、太陽の光に満ち満ちて、その光の当たっているからこそ羊が光り、少女が光り、草原全体に晩秋の光が満ちるのです。
人生も同様に神の光に満ち満ちているのですが、その神の働きは見えません。人間がこの働きの場に置かれていることに気づき、愛の働きが現実化するときに、神がそこに現れるからです。
ミレーの絵は、そのように訴えているようにも見えませんか。少女の祈りとともに愛の栄光が現れ、晩秋の弱い光は、祈りとともに強くなっているようにも見えるからふしぎです。