はじめに
ジャンヌ・エビュテルヌ(Jeanne Hébuterne)はモジリアニの妻であり、モデルでもあり、画家でもあった。さらに藤田嗣治のモデルにもなったことがある。
彼女の生い立ちは、モジリアニに出会うまでは、美術学校に通いながらモデルを務めるなど希望にあふれたものであった。
ところが、ローマ・カトリック信者の家族を押し切ってモジリアニと結婚する。彼女は穏やかで内気で無口で繊細な女性であったこともあり、モジリアニの多くの画題になっている。
しかし、モジリアニ自身が結核性髄膜炎と薬物乱用がたたり35歳で病死。その夫を追うように彼女も身を投げて自殺する。
当時まだ2歳であった長女ジャンヌ・モジリアニは、叔母の家に引き取られる。成人して美術史家として、父の評伝を著す。
実は、官能的な裸婦画を描く画家という当時の印象は、この評伝を境に一変する。それは、長く伸びた人物や肖像は、繊細な線とともに壮麗なハーモニーを奏で官能的というよりは神秘性を帯び、神々しささえ醸し出していたため、見るものを釘付けにする迫力があったのである。
アーモンド形の目の色は、深い青色で描き、侘しさや悲しさと表裏一体をなす、一筋の生への執着を見事に表しているようにも感じられる。
まさに、長女ジャンヌ・モジリアニが残した評伝にあるユダヤ人としての誇りとその神話性が、彼の真摯に絵と向き合う本当の姿を浮き彫りにさせたのである。
晩年の人物画
彼は、亡くなる2年間を南仏プロバンスですごしている。すでに第1次大戦がはじまり、若者は戦争に駆り出されているが、モジリアニは徴兵さえ拒否されるほどの病弱であった。
ここで土地の人々をモデルとして肖像画を描き続けた。それこそ、年端もいかない農夫や食料品店の娘など市井の貧しい人たちであった。
ところで、彼の極端なデフォルメは、まるでくり抜いたような目や長い首に特徴がある。それは、人物とは対照的に、彼の中にある独自のフォルムに当てはめて描いていたからだ。
なので、彼の苦難の人生と悲壮な表現を実現しているとともに、希望のメッセージがないまぜになっているのである。
それは、むしろ希望すら許されないような思いが、くり抜かれた青い目となり、この世に存在することすらおこがましいようにも感じられる。
おそらく、彼の生への執着から解放され、本当の自己に出会うことによって、彼の思うままに自由に描くことができたのである。なので、自分の中の自己に出会うことで、自分の存在が何かに支えられていることに気づいたようにも思われる。
苦しみという門
彼は、幼少期に肺結核に罹ったことで、終生病弱であったことが、絵画への道を志すきっかけとなった。しかし、その苦しみが、酒と麻薬に溺れるきっかけを作ったのだ。
時として、絵画の才能があったにもかかわらず、評価もされず、自暴自棄に苦しんだ生涯でもあった。ただ、彼の救いは、亡くなる前の2年間をブロバンス(南仏)で過ごした時期に、生への執着からの解放とともに、苦しみからも解放されたことだった。
それは、彼の作品がその土地の貧しい農民や市井の少女をモデルにしたことが意味を持つ。なぜなら、彼はすでにその時、死が近いていることに気が付いていたからだ。
彼の肖像画の原点は、未開社会の宗教的な儀式や祭礼用に使う仮面から来ているといわれる。それは、彼が、貧しい少年に目を向ける心が投影されているからだ。
なので、市井の貧しい農民の苦しい生活を見た時、自らが苦しいと酒におぼれ、自堕落な生活をしていたことを恥じらっていたのかもしれない。その心境が絵の中に投影したのだろうと思われる。
それが、シャーマンで使う仮面の造形美が、肖像画のアーモンド形の目や、弧を描く眉、シンメトリーな造形に現れている。
彼の苦しみという門を通してそれらが具現化されることで、ユダヤ人としての誇りと存在することの神秘を自覚しされたように思われてならない。
青い目の背後にあるもの
彼の妻、ジャンヌ・エビュテルヌの青い目の背後にあるのは、彼自身が真実を見ようとする心の窓となっている。一見、無機質に見える彼の肖像画は、目の奥の深い青色を通して訴えかけてくる人間的な感情があふれているようにも見える。
おそらくそれは、病気からくる苦しみからきているのではないだろうか。それが、自分自身の内に存在根拠をもたないもの、別の言い方をすれば、自分がコントロールできないものの出会いなのだ。
自己の中の痛み、苦しみは、自己が支配できない他者に直面しているということだ。自分が持て余すもの、自己の中の他者であるということになる。
それが彼が描きたかった、目の奥底の青く深いくり抜かれたような目に表現されているような気がする。それはまさに被写体であるモデルの妻の目を通して訴えかけてくるものであり、自己の心の奥底にある苦悩なのだ。
特に彼が妻をモデルにしたときは、自分とモデルという境界線が無くなり、一体となって描いていたのだろう。なぜなら、彼はすでにこの時期、地位や名誉や家族さえも何もかも捨て去り、何もかも無くなった時に出るある種の神がかり的なものになっていたからだ。
だから彼は、モデルでもあり、妻でもあるにもかかわらず、自分の自己の奥底にある本当の自己をその絵に投影していたのだろう。
そこに生まれるものは「一つの単純なる」(ein einfaliges Ein)デフォルメに反映されていく。だから、目や鼻や口、首や身体さえもデフォルメされ、きわめて単純なるものになっていくのだ。
ただ、青い目の背後にあるものだけは、自己と一体となった何者かがあるのかもしれないし、自己の苦悩が反映しているのかもしれない。その答えは誰にもわからない。
おわりに
モジリアニ『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』から垣間見る人間の本質について考えてきました。モデルのジャンヌは、モジリアニの中ではすでに神となっています。なぜなら、「究極の自己犠牲も辞さぬほどの献身的な伴侶であった」からだ。
彼女の墓碑銘にそう書かれていたのである。それほどまでに、モジリアニに尽くした人だった。それが証拠に、彼が病死すると身ごもった体とともに身を投げ、後追い自殺しているのだ。
さて、モジリアニの絵画の価値は、亡くなる2年間をブロバンス(南仏)で過ごし、そこで描いた肖像画にある。その肖像画は今までの裸婦と違い、名もなき市井の少年や少女たちだ。
もちろん妻のエビュテルヌも身近な存在として、多くの肖像画を残している。それも作品の多くは一対一の対面である。モジリアニ自身モデルを前に、先入観にとらわれることなく、個性をあるがままに受け止めている。
特に妻のジャンヌの肖像(『Portait de Jeanne Hebuterne』)は一段とデフォルメに激しさを増しているのが特徴だ。先入観なく向き合うというよりも、彼の中の独自性が反映され、対象の人格性すらも感じられなくなってきている。
それが逆に、青いくり抜かれたような目の奥に、目を奪われるような、不気味さと不思議さが漂うことで、一層その個性を際立たせているようにみえる。それが自己の中の他者であり、神々しいまでの神聖なのだ。