はじめに
この少女は、南フランスの疎開先で、偶然出会った田舎の少女がモデルです。穏やかな気候とともに、彼(モジリアニ)が父親になるということもあって、愛情あふれる作品になってます。
このブログは、絵画を通して人間をえぐり出すという哲学的視点で書いています。なので、絵画の技法や絵画の紹介は必要最小限にとどめ、彼(モジリアニ)を通して、なぜこの少女を描いたのかという視点でとらえています。
さて、この少女に目が留まったのは、血色の良さと、青く透き通るような目の輝きに魅力を感じたからです。ただ、いつの時代も、戦争の犠牲者はこの少女のような弱いものたちです。
この時代背景は、第一次世界大戦の最中、パリの戦火を逃れた人たちの疎開先として、多くのパリ市民が難を逃れて生活していました。中でも子供たちや、モジリアニのようなユダヤ人なども多かったようです。
このように、弱いものたちとともに寄り添って生活することこそがモジリアニが最後にできることだったような気がします。なぜなら、このころのモデルは、その様な戦災孤児の少年少女たちをモデルにしていたからです。
彼ができる最後の人間らしいふるまいは、このような少年少女をモデルとして描き、少しのモデル代を生活の足しにしてあげることと、後世のその作品を残すことだったに違いありません。
愛を受けうる者
聖書(マタイ10:34)に次のような言葉があります。
私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
マタイによる福音書 10 : 聖書日本語 - 新約聖書日本語で聖書章 - 新約聖書 - Matthew, chapter 10 of the Japanese Bible
この意味は、平和とは、あるいは幸福とは、与えられるものではないということです。「剣をもたらす」という本当の意味は、「武器を持て、弓を引け」とは全く違います。
人間の心に巣くう権威あっ欲望を剣をもって断ち切れといっているのです。一人ひとりの人間の心に巣くう暗闇を断つ覚悟を示せといっているのです。
人を傷つけるよりも、自分を傷つけ、重荷を背負って苦しみとともに生きよといっています。モジリアニは生涯苦しみとともに歩まれました。病魔が襲い、薬物に溺れ、極貧の生活を送った生涯だったのです。
まさに、イエスの教えのような生涯を送ったのではないでしょうか。だからこそ晩年は、すべての欲望を断って、人に尽くす、人を支えるという行為に及んだのだろうと思われます。
そういう意味では、彼の晩年は平和が訪れ、幸福な最期を迎えたのだろうと思われるのです。それこそ「愛を受けうるもの」になったのです。
苦しみから生まれる愛
モジリアニがそうだったように、生涯を病苦で苦しんだ人です。もちろん、それによって酒におぼれ、薬物に手を出し、自暴自棄になったことも事実です。
人間は生きている以上苦しみの只中にあります。もちろん心身ともに健康な命を求めて止まないのも事実です。しかし、現実は、病魔が襲い、老いが一層病苦に拍車がかかります。
人間は自分中心であるがために、放っておけば驕り高ぶる者になります。一方罪人など最も虐げられた人にはそういった力はありません。あるのはただ命乞いをすることだけです。そこに本当の愛が生まれるのです。
なぜなら、人間の弱さをじかくするからではないでしょうか。哲学者で大司教のアウグスティヌスも次のように言っています。
私は弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。意志することもできません。それどころか、何が善であるかを、知ることもできません。どうかあわれんで、私を照らしてください、みちびいてください。
アウグスティヌス=山田晶1996-40
自己の傲慢を断ち、弱さを自覚することは、並大抵にできることではありません。人間が挫折してどん底に落とされてみなければ見えない世界なのです。
井戸の底からかすかに見える光を見た時、自己の愚かさを初めて自覚できるのかもしれません。本当の愛情は、このような心境から生まれるのでしょう。そういう意味では、「罪人こそ往生」するのです。
だれが一番偉いか
もちろんみな自分が一番偉いのです。いや、あの人が偉い、この人が偉いといっている人ほど自分が一番偉いと思っています。なぜなら、自分の命ほど大切なものはないからです。人間はどう努力しても子供のように無心になれません。
神が理想として示す人は、偉大な英雄でもなく、博識の学者でも、大金持ちや権力を持ったものでもありません。ではだれか。小さな子供です。
それは、社会の中で最も無意味な者、最も小さい者、子どもはそういう人のモデルです。聖書では次のような言い伝えがあります。
あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。
福音書ルカ伝9:48
強い者、偉い者こそが、弱い者、小さい者に仕えることが求められているのです。最も犠牲になりやすい小さな子供などの弱い立場の人々に、愛を持って仕えることこそが人間の本当の価値のある行為です。
もっとも低みに立って考えることができる方こそが、本当の意味で偉い人なのです。一番偉い人とは、大金持ちでも、権力者でもありません。とても弱くて、ひどい目に遭った人達に手を差し伸べる人こそ偉い人なのです。
もう一度この絵を見てください。戦争で犠牲になった幼い少女は、唯一おめかしをして、モデルとなってポーズをとっています。
もちろん、作者モジリアニもその純粋さにひかれて描いたのでしょう。その証拠に、青い服と青い目が物語っています。どこまでも、透き通るような純朴さにあふれているではありませんか。
おわりに
モジリアニの「青い服を着た少女」を通して人間の本質に迫ってみました。この時代背景は、第1次大戦末期の避暑地であり、避難場所でもあった、南フランスのニースです。
おそらく、戦争で逃れてきた少年少女が沢山いたものと思われます。戦争で真っ先に犠牲になるのが、このような、最も弱い人達です。特に子どもは、純粋ゆえにいち早く犠牲になりやすいのです。
この時代にあってなおも、純粋で控えめで素朴な田舎の少年少女をたくさんモデルにしました。なぜなら、作者自身が死に曝されたときには、純粋でけなげな子供に心を動かされたのです。
モデルの青い目の少女は、服の青と目の青が同じ色で描かれ、純粋さがより一層引き立っています。死に曝された作者は人を救うもの、人を癒すもの、止んでいるものを癒すものとして少女は眼前に映し出されています。
モジリアニ自身の生涯を考えた時、幼少期から病苦と戦い、病魔と薬物と飲酒によって、自ら檻の罠にからめとられてしまったのです。しかし、死を前にした最後の2年間は、このような少年少女を前にして、絶対的な光によって救われたのかもしれません。