モジリアニ『青いジャケットの少年』からみる人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

モジリアニの作品である。目の玉を描かない特有の彼の絵画は見るものをひきつけ、釘付けにさせる。少年は顔を手で支え、少し傾けたポーズは神秘的で他を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。

モジリアニは晩年、フランスの片田舎ブロバンスですごす。そこでは、貧しい片田舎の無名の少年をモデルにして描き続けた。

彼の絵画の特徴の原点は彫刻から来ている。フォルムは単純化し、原始美術のテイストを取り入れ、瞳孔もなくシンプルでありながらも、人を引き付けて止まない独特の感性を持っている。

なので、当時のパリで活躍したピカソなどから高い評価を得ていたが、生前はそれほど芸術としての評価は高くなかった。ただ、彼の自由な発想と市井の社会階層の低い田舎の少年をモデルとした点は、哲学者ニーチェの思想に影響されているといわれている。

それは、彼の晩年の2年間を南仏で過ごし、彼が極めたあの独特のフォルムと目玉を描かない手法は、「人間存在のはかなさ」を一段と進化させたものになっているようだ。

ある種、ニーチェのニヒリズムにも通じ、実存的な自然主義的手法によって、人間の内面をより深くえぐり出しているようにもみえる。

なので、彼の絵は、これまでの写実主義から離れ、人間的感情を殺すことで、より一層、人間の内面からくる感情を露わにしているのである。

魂において貧しい者

「魂において貧しい者」とは何か。決して心の貧しさを言っているのではない。聖書独特の逆説で「謙遜であれ」といっているのだ。

ところで、モジリアニは宗教自体を毛嫌いした自由主義者である。なので、「神は死んだ」といったニーチェを信奉する。しかし果たしてそうだろうか。

もともと彼は、肺結核を患い、幼少時から病弱であった。病気療養でローマ各地を回ったことがきっかけで、絵画に目覚めていく。

しかし、パリでは異端児扱いにされ、なかなか絵の評価は良くなかった。さらに、自堕落な生活と病弱とが重なり、結核性髄膜炎になり36歳の若さで亡くなる。

ただ、彼は晩年、パリを離れ南仏(ブロバンス)で暮らすその2年間は独創的な肖像様式を確立し、評価され始める。その晩年は、貧しい農村の少年など、市井の庶民をモデルにしていたのだ。

農村の少年は貧しい境遇でありながらも、心は決して貧しくなかった。モジリアニは、その純粋な少年の魂に触れ、自らの自堕落な精神を自戒したのではないだろうか。

そのため、彼はもう一度、絵の表現方法を原始美術にまでさかのぼって、アーモンド形の目にたどり着く。

その目玉のない青一色の目は、とても深い純真さを露わにし、見る者の心を鷲掴わしづかみする。あえてそのような片田舎の少年をモデルにしたわけは、生活は貧しいものであっても、魂は豊かであるだけでなく、「謙遜するもの」だった点に行きついたのだろう。

青い服を着た少年

服を青色に描いた意味は、青色は静けさ、神秘性、冷静さ、精神的な高揚感などの意味合いがある。この服を着た少年の内的な感情をあえて抑えているところにある。

そして、この青の色には、不確実さや不安が隠されているといわれ、書き手の精神までも反映しているようだ。それと同色で描いた目は、瞳がないために、何も見えていないかのような内面的な世界を醸し出している。

彼の絵は、普遍的な人間の存在、孤独、愛、そして生と死をテーマにしている。その少年の絵は存在そのものが、人生の様々な側面、あるいは人間そのものを表現しているともいえる。

したがって、人間の本質が、傷つき易さ(vulnérabilité)、受動性(passivité)、死すべき者(Sein zum Tode)であるという点に帰結する。人間が肉体であるということは、生きることは、最初から本質的に苦しむことを意味している。

なので、モジリアニ自身が病弱で、幼少時より肺結核を患い、それを死ぬまで引きずり、芸術にその天性を捧げていることに関係しているようだ。

人の魅了する、不可解なこのイタリアのユダヤ人にはシャーマンの魂がある。陶酔、呪い、それることのない視線、まさに人間の声が止む沈黙の世界へといざなううようだ。

ル・クレジオ(ノーベル賞作家)はモジリアニの絵画をそう指摘する。「人の声が止む沈黙の世界」と評した。人間の持つ孤独とはかなさを見事に描き出した作家ともいえる。

モジリアニの描く目の世界

モジリアニの描く肖像の目は、開けているときは世界を、閉じられているときは自らの心の内を見ているといわれている。

長い首、長い鼻、空洞あるいは左右非対称の目は、表情を豊かにするためになされたモジリアニの試行錯誤の集大成である。

そのため、目は口ほどにものをいい、その目を通じて自らの思いを伝え、我々に何かを問いかけてくるようだ。目は明らかに心の窓であり、一見笑っているかのように見えても、瞳の奥は悲しみに滲んでいる。

このように、少年は感情を押し殺してはいるが、絶望的な表情でもなく、どこかに生きる希望をはらんんでいるようにも見える。

何を思っているのかこの少年の目は、自身の内なる世界に人間存在の悲哀のような感傷に浸っているようだ。それはまさに、モジリアニ自身のユダヤ人としての尊厳と人種の本能的な神秘を映し出しているのだ。

モジリアニの描く目の世界感は、本当の自己を見つめているようにも思える。自分の思っている自己は本当は作り上げられたもので、自己は絶対に自分のものにはなれない。少年は永遠の自己の世界を見つめているのだ。

おわりに

永遠の自己を見つめる少年とは、モジリアニ本人の世界観でもある。彼の晩年の行きついた先は、善を思考する精神と堕ちていく喜びに溺れる心を常に抱いていたのかもしれない。

それが証拠に、市井の少年は、恥じらいを伴い、どこか都会の子には見られない純粋さと悲哀を感じていた。それが少年の目を青く描き、深いところの本当の自己をあらわそうとしたのだろう。

なので、彼の描く青く深い目は、見る者の心を奪うのである。生前は全く評価されなかった彼の作品は、パリの展覧会を機に一気に花開く。

「私にこのまま無限の悲しみをあの海の底に隠しに行かせてください」と彼の絵を見てロートレアモン伯爵は評している。人間は悲しみをある種背負って生きていることでもある。

ただ受け入れる以外になすすべのない人間の宿命が眼前と横たわっている。彼の絵には、その悲哀を感じさせる青い海の底が、彼の独自の目に潜んでいるのだろう。

彼は絵を描く中で、このような内的世界と外的世界の二つの世界をさまよい、ひと時であれ解放され、限りない美しい「緑の妖精」に出会うのである。

ちなみに、現在、彼の原画の落札額は30億円を下らない。

 

 

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました