はじめに
この絵はバルトロメ・エステバン・ムリーリョが1660年ごろに描いた絵画です。『犬を連れた貧しい少年』の題材はセビリア(スペインアンダルシア州)の街頭にいた犬を連れた貧しい子供でした。
この少年の愛くるしくやさしい笑顔はいったいどこから来るのでしょう。ムリーリョ自身も孤児だったためか、子どもたちを見る目は、限りなく優しい。
「籠の中はからだよ」と犬をなだめているのだろうか、その柔らかな抒情は人の心を引き付けて止まない。
このころのセビリア地方はペストが吹き荒れ、困窮にあえぎ市民は、貧民窟を築く。そこからあふれた子どもは野宿をし、徒党を組んで、獲物を探し回る毎日を送っていたのです。
愛くるしい少年の微笑は、まるで天使やプットのようです。餌をせがむ犬に対して何とも言えないやさしさがにじみ出ています。
まさか貧民窟からあふれ出た浮浪児の生活を送っているとは思えないような整った顔立ちからは想像すらできません。
しかし、大人の古チョッキをまとい、その下にはこれも大人の下着やシャツがつぎはぎだらけで、腕をまくって長さを調節して着ているようにもみえます。
17世紀のセビーリャ(セビリア)は、スペイン南部の大都市で港町として栄え、地中海貿易の拠点でもあり、アフリカに隣接していたため、奴隷貿易の要所でもあったのです。
そのため、あらゆる農産物が集まり、市場を形成するとともに、多くの人種が集うだけでなく、黒人奴隷などの浮浪者が貧民窟を形成していました。17世紀にはスペインで最も人口が多い都市として発展したのです。
目次
- はじめに
- 天の国は彼らのため
- 愛を受けうるもの
- 孤児は神の子
- 愛は弱者の叫び
- おわりに
天の国は彼らのため
福音書には子供たちが登場します。赤子、小さき者、幼子といくつかの表現があります。
1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
セビリアの市場に集う大人たち、特に、権力を持った当時の王や家来達は、黒人を奴隷のように扱い、自分達は大きいもの、立派なものを好み、成功した姿、ピカピカした姿を欲しがったのです。
ところが、イエスは、小さい、無力な、養ってもらわないと生きていけない赤子のような謙虚さをもった孤児たちを愛しました。
なので、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできないといったのです。なぜなら、その弱さ、小ささを受け入れることで謙虚さを学ぶことができるからです。
つまり、自分を低くして、子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだとはっきりイエスは言っています。セビリアの浮浪児こそもっとも小さくされた者であり、その人こそが天の国に入ることができたのです。
見よ、子供たちは神から賜った嗣業であり、
胎の実は報いの賜物である。」(詩編 127:3)
愛を受けうるもの
17世紀は一部の裕福な貴族たちを除いては、みな明日の食べ物に困る多くの人達であふれかえっていました。特にその中でも、もっとも犠牲になったのが子どもたちでした。
多くの浮浪児たちは、大人顔負けに街をうろつき、露店で商売をするものまで現われ、それでも食うものに困った浮浪児は物乞いをするなどして生計を立てて暮らしていました。
貧しい彼らは、何も持っていないため最も弱い人間そのものです。貧しい子供たちは最初から丸裸同然で、衣類などは大人のいらなくなったような古着を使いまわしていたのです。
なので、貧しい彼らはお互いに徒党を組んで、助け合わなければ生きていけませんでした。自分を自分で守ることができないほどの弱者中の弱者だったからです。
その時、人が人に触れるという奇跡が起こるのです。大人たちから使い古しの服をもらったり、それを売ったりして、わずかな食いぶちを稼ぐことができたのでしょう。
自分の弱さをさらけ出して生きていくしかないこうした浮浪児は、浮浪児同士や黒人奴隷やロマなどの人達からも多くの愛を受けていたに違いないのです。
たとえば、小説『オリバー・ツイスト』は孤児として様々な困難に直面しながらも、大人のやさしさに触れながら苦難を乗り越えていきます。
“Please, sir, I want some more.”
これは、オリバーが発した有名な言葉です。人間の愛はあくまでも人間の愛ですが、同時に神が働いていることがわかります。「Prease,sir,」の中に神がいます。
孤児は神の子
なぜ孤児は神の子なのでしょう。答えは至極シンプル、何も持っていないからです。何もないほど怖い者はないからです。なぜなら、愛を受けられるものだからです。
愛は自分の力でもぎ取ることはできません。力というものが支配するものだからです。愛はあくまでも「他者から到来する善意」受け取ることしか成立しないのです。
なぜなら、相手を支配するという姿勢を持ったら、そんな人を愛する者はどこにもいないのです。他者は「仕える」という姿勢でしか人と触れることはできません。それだけ、人が人と触れ合うとは奇跡的なことなのです。
しかし、孤児を見てください。最初から仕えるしか生きていけないからです。自分の弱さをさらけ出しているからです。その時、人は人に触れるという条件が生まれるのです。
なので、孤児は神の子なのです。神の働きの場がそこにあるということです。あくまでも神は存在しません。しかし、働きの場が働くことで、出現するからです。
あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。
ルカによる福音書9章46~48
イエスは今までの価値観を捨てよといっているのです。なぜなら、より強く、より早くと願って生まれ、そのような社会に投げ込まれ、誰よりも強く、偉くなれ、できるという存在価値を植え付けられてきたからです。
しかし、そういった強さだけをひけらかした権力者は、決して他者に触れることはできません。愛する心はそういう人にはありません。なので不幸な人なのです。
愛は弱者の叫び
愛というのは願い求めるものです。それは、最も弱い者、最も虐げられた者、最も孤独な者、最も見捨てられた者の姿をとって神は現れます。
なので、そのような人は他者に助けを求めて叫ぶ以外になにもできないのです。それが愛を求めての叫びです。我々が徹底的に弱者になるとは、赤子になった時か死を待つ老人になった時です。
その時、奇跡は起こります。自分の力に頼ることができなくなった時、人間は他者に助けを求めて叫ぶことしかできないのです。
なぜ弱者は叫ぶことしかできないのでしょう。力をふるえないからです。その弱者に応答する者も弱者でなければわからないからです。
路上でたむろする孤児は、ひょとしたら、当時の貴族や兵隊などに崖に突き落とされて、悲惨な最期を遂げてしまう可能性に身をさらしているのです。
何の屈託のないこの少年はまさにプット(天使)であり、神に使わされた者なのかもしれません。愛とやさしさに満ちたこの少年は、そういう力が襲い掛かれば、霧散霧散となってしまうでしょう。愛とはそういうものなのです。
おわりに
ムリーリョの『犬を連れた貧しい少年』を題材に、人間とはないかに迫ってみました。人間とは弱き者、死すべき者、かけがえのない者であることがわかりました。
イエスの言う、隣人を愛せとは、他者とのかけがえのない関わりに入れという命令です。哲学者レヴィナスは他者の顔に直面するとき、その顔から「殺すな」という命令を受け取っているのだといいます。
そこには理屈はありません。「殺すな」という命令を我々は受け取るのです。なので、そこには何の根拠もなく、ただ、神の志向性としてそこに他者を通して現れるのです。
もう一度少年の顔を見ればお分かりかと思います。彼の笑顔に、何の欲望もありません。ただ在るのは、「殺すな」という命令が彼の顔を通して訴えているのです。
愛とはそれほどまでにはかないものです。権力者によって簡単に殺されていったその当時の浮浪児の惨状を見ればお分かりだろうと思われます。
しかし、他者は「目的自体」です。他者は絶対にただの道具として使ってはならないのです。そういうふうに他者と関わりなさいという命令が神から与えられているのです。
大哲学者カントはそのことをデウス・イン・ノービス(deus in nobis)といいました。「我々の内なる神」という意味です。