はじめに
長田弘の詩集『奇跡』に次のような詩があります。
海に浮かぶ船の高いマストのてっぺんに、時計を持つ天使がいて、天使の時計から、刻一刻と、しずくが海に滴り落ちている。天使が大声で叫んでいる。また一分が流れ去った、と。中世の宗教画で見たか、本を読んだか、その天使の叫び声で、いまは、毎朝、目が覚める。紅茶を淹れる。紅茶の香りが明るいキッチンにすっと流れる。ムスカリ、ストック、サイネリア、季節を裏切らず生きる花々に、水を遣る、習慣が、わたしのパトリアだ。思想は揚言のうちにない。行蔵のうちにしかない。一番貴いもののことを考える。『幸福な王子』という、誰でも知っているけれど、大人になるともう誰も読まない、オスカーワイルドが遺したことば、the most precious thing ゴミ山へ捨てられたいちばん貴いもの。一人、目を瞑り、思いを沈める。いつの世にも瓦礫のままに残されてきたこの世の一番貴いものについて。
長田弘2021:76-78tha most precious thing
この世で最も貴いものとは何かをオスカーワイルドが教えてくれます。それは、ゴミ溜めに捨てられた鉛の心臓と、ツバメの死骸でした。
そのことは何を意味するのでしょう。王子は食べる者もない貧民に金銀財宝を配っていました。ツバメは天使となって王子を博愛の精神へと導き、本当に助けを必要とする人とは何かを悟らせたのです。
人間にとって本当に大切なものとは、金銀財宝でなく、博愛の心だったのです。なので、溶け残った心臓は天国に運ばれ、永遠の幸福の都で使われました。
つまり、思想は揚言の内にはないことを教えています。あくまでも、思想は行動によって育まれる(行蔵)ものだといいます。
それを長田弘の詩「tha most precious thing」は教えています。人間は物質的な豊かさに翻弄されて生涯をむなしく終えます。しかし、本当の豊かさは、献身による精神的な豊かさを得ることだったのです。
存在の根拠
人間にとって命ほど大切なものはありません。しかし、その命を私に贈ってくれたものは誰なのかわかりません。目には見えないだけに、本当にどこにいるのかわかりません。
しかも、私たちは、自分で自分を存在させていることはできません。その根拠が私の命の根底に入っていることを自覚させるのです。
つまり、大いなるもの(とりあえず神と呼びます)によって、この世界はつくられたのかもしれません。その証拠に、宇宙を含めた自然は、138億年前「ビックバン」に始まり、分子から人類が生まれるまで、長い時間をかけて今に至った経緯は、まさに大いなるものの力が働いたと考えるのが自然かもしれません。
そのことは、私たちが存在する根拠とは何かを教えている気がします。アウグスティヌスは存在することは「在らしめられて在る」ものだと『告白』の中で以下のように言っています。
自分は無から造られた。神が自分を存在せしめてくださらなければ、自分は無のうちに消えてゆく。罪とは無へのかたむきであり、罪の告白において、私は「無からのもの」であることを告白するのである。しかし自分は無ではない。「無からのもの」であるとともに、神のよって「在らしめられてあるもの」である。自分を「無からのもの」であると知ることは、一面の真実である。
アウグスティヌス=山田晶1996:15
在らしめられて在るものとは
自然界にあるものはすべて成長しやがて朽ちて無くなります。人間も例外ではありません。「無からのもの」はやがて無へと進むのです。
しかし、人間は「無からのもの」であるけれども、「在らしめられて在るもの」として、自由を与えられました。自由とは自らの意志で行動するということです。
例えば、「休む権利」「遊ぶ権利」もっと具体的に言えば、眠る時間、ボーとする時間、好きなことをする時間、などなど、人間が健康で暮らす権利です。
特に子どもは、学ぶ権利とともに学ばない権利だって保障されるべきです。特に親は子供の権利を侵害しがちです。子どもだって幸せになる権利は保障されているのです。
なぜなら、自由が保障され、自由を与えられているからにほかなりません。それが「在らしめられて在るもの」につながるからです。
ただし、自由は好き勝手にすることとは違います。「無からのもの」という根源をだれもが支えられて持っていることを忘れてはいけません。
なので、死すべきものである以上、存在は無(根源)からのものであり、無へと帰るものなのです。もともと無いものが在るという奇跡が存在するという意味だからです。
いちばん貴いものとは
人間は無からのものである以上、いちばん貴いものを根源に持っていることを理解できないでいます。強さを求めて止まない人間は、やがて年とともに弱さを経験します。
弱さの自覚は、やがて弱いものの尊さを理解するのです。弱いものがなぜに貴いのか。赤ちゃんを見ればわかるでしょう。名誉や財産など一切を持っていないからです。
何も持たないものがやがて目にとまるのが、自然のすばらしさや、弱い人へのやさしさではないでしょうか。オスカー・ワイルドが教えているいちばん貴いものとは何でしょう。
王子という裕福で有り余る財宝や何不自由のない生活に対して、世界には明日の命を保障する食べ物さへない人たちがたくさんいることがわかったのです。
天使はツバメに化けて、そっと王子を導きます。困っている人とともにへりくだることほど尊いものはありません。王子はなぜか幸福感に包まれます。
本当の幸せを感じた瞬間です。神の栄光ははるか遠いところにあるのではありません。ほんのささやかな生活の中に宿っているのです。それを長田弘の詩はそっと教えているのです。
おわりに
神は行蔵のうちに宿ります。人間はいろいろな仕事をします。漁師をやっている人、青果商をやっている、漫才をやっている人などなど。そこに貴賤はありません。すべての仕事は社会にとって等しく尊いものとされています。
そこに神の働きがあるからです。一人ひとりの存在の根拠が神の働きを宿していることがわかるのです。神とは私自身の中の愛の働きです。
それが存在の根拠であり、「無からのもの」にすぎないけれども、「在らしめられて在るもの」という意味です。
地球を含め宇宙のどこを探しても神という存在者は存在しません。具体的には長田弘の詩の一遍にその答えがあるのかもしれません。
「毎朝、目が覚める。紅茶を淹れる。紅茶の香りが明るいキッチンにすっと流れる。ムスカリ、ストック、サイネリア、季節を裏切らず生きる花々に、水を遣る」。
たったこれだけのことで、幸福を感じる人の働きに神は宿るのです。神は無です。人間は無からのものです。そこに人間の有限と神の無限があるだけです。
「海に浮かぶ船の高いマストのてっぺんに、時計を持つ天使がいて、天使の時計から、刻一刻と、しずくが海に滴り落ちている。天使が大声で叫んでいる。また一分が流れ去った、と。」・・・。



