もくじ
- はじめに
- 罪は許されている
- 100以上描かれた諺
- ブリューゲルの一喝
- 善悪を超越した神の善意
- おわりに
はじめに
この絵には100以上のネーデルランドの諺が隠されています。人間がいかに罪深く、邪悪で、愚かな存在かがわかります。
この絵の中でも「だれでももっとも長いものを得ようと引っ張る」(画面中央左下)という諺が人間の本質を言い表しています。なぜなら、人間は自分自身を知らないために、私利私欲、エゴイズム、自己認識の欠如がはびこるからです。
なので、ことごとく人間の本質を描いていることがわかります。つまり、少しでも多くの物を得ようと、他人より高い地位を得ようと、他人によりいい職について多くの財を築こうと、少しでも他人と比べ、かっこよく見せたいというのが人間の本質だからです。
しかし、それとはまったく真逆の行為が、他者を愛するという行為です。というのも、人間は、他者から愛されることで、自分の存在が肯定されるわけです。
お互いに肯定を贈りあって存在しているのが人間の姿です。それをキリスト教の世界では、カリタス(caritas)が働くといっています。
いわば、神が人間の中に入って働くことがカリタスが働くということです。私たちは根源から生まれ、そして根源に帰る存在であるということが存在することの本質です。なので、存在は贈られたものです。
そういう存在が我執をもてあそぶ存在でもあるのです。そのことは、はじめから神はわかっていたのです。ゆえに、カリタスが働く場所があると同時に、我執が働く場所が同時並行的に行われているのです。それがこの絵にあるような現実の社会生活なのです。
この世界はまさに『ネーデルランドの諺』の絵の世界のごとく善と悪が満ち満ちています。なぜなら、善と悪が同時並行的に起こっており、同時並行的に、カリタスが働く世界でもあるのです。
罪は許されている
神はもともと誰をも非難したり告発したり、断罪したりはしません。もともと罪はすでに赦されているのです。なぜなら、「青い外套を着せる人」(画面中央下)も「豚の前にバラを投げる人」(画面中央下)も「自分の粥をぶちまけたもの」(画面右下)も「車輪に棒をかますもの」(画面右下)も、自分でしたことを悔いているからです。
『ネーデルランドの諺」に描かれている非難や罪や告発は、同時に赦されているのです。なぜなら、「一方の手で水、もう一方の手で火を運んでいる」(画面左下)のと同じです。
なので、万人が悪人なのであり、悪人の中にすでに善人がおり、根源に目覚めた瞬間から神秘を見始めるのです。つまり、自我からの解放されたとき、悪は解き放されるのです。
いつも我々は、「一方の手に水を持ち、もう一方の手に火を持って」います。善と悪を同時に携えながら、常に瞬間瞬間の選択によって、善にもなれば悪をも為すことができる存在です。
たとえば、買い物をしてレジから出るとき、たまたま置き忘れてあった籠の中に、好きなものがあった時など偶然出くわすことはあるかもしれません。
その時、瞬間に自分の袋に入れることもできし、レジの人に忘れ物ですということもできるはずです。当然、袋に入れる行為は悪であり罪です。後者の届け出る行為は善です。
しかし、神の目で見た時、どちらも、赦されているということです。なぜなら、善と悪の行為を自覚しているからです。悪いことをしてしまったという罪の意識が根源から働くのです。
100以上描かれた諺
『ネーデルランドの諺』の絵は、ある海辺の日常生活が描かれています。左側の家の壁に逆さまになった地球儀があります。これは、人間は愚かで世間の出来事に翻弄されていおり、神の目で見ることができず、地球は逆さまにしか見れないことをいっています。
つまり、人間の目で見ると神の世界とは真逆なのです。なので、金持ち、地位の高いもの、財を成したもの、きれいなもの、かっこいい人に人間は憧れるのです。
ところが、神の目で見るとまったく逆に見えるのです。つまり、貧乏人、地位の低い者、ぼろをまとって醜いもの、虐げられているものなのです。神から見るとこれらの弱者は、同時にかけがえのない人なのです。
弱者はなぜかけがえのない人かというと、1人では生きていけず、弱い者同士が助け合って生きていく以外ないからです。そこに、本当の人と人との助け合いや愛情が生まれ、生きがいにつながっているからです。
その答えこそが、『ネーデルランドの諺』の作品の中に描かれているような、貧民の生活の一コマなのです。
絵画下部中央に、赤い服を着た女性が夫に青い外套をかぶせている絵が描かれています。これは女性が不貞を働いていることを意味しています。女は若々しく、夫はまるで老人のようになってしまっています。
絵画中央部の天蓋の下には悪魔が座っていますが、この絵の摂政であり、神なき世界に神に代わってこの世界を治めているに違いありません。なぜなら、悪意と欺瞞にあふれた世界だからです。
ブリューゲルの一喝
ところで、古代ギリシャの哲学者にヘラクレイトス(Herakleitos.c500BC)という哲学者が発した言葉に「来たれ、ここにも神がいます」と叫んだという有名な言葉があります。
これは、大哲学者ヘラクレイトスの知恵のことばを聞こうと集まった人が、老いぼれた爺さんが竈の炭火で暖を取っていたため帰ろうとした時に発した言葉です。
ブリューゲル(Pieter Brueghel)はルネサンス期に活躍した農民画家です。封建的圧制を風刺する宗教画をへて、「農民の婚礼」や「農民の踊り」など独自の農民風景画にたどり着きます。
それが「百姓ブリューゲル」といわれ、たくましい庶民的リアリズム画家として大成した所以です。しかし、彼の根底にはこの風刺画のように、庶民の生活の奥深くに入った諺は、まさに「ここにも神がいます!」と叫んでいるようです。
これこそが「ブリューゲルの一喝」ではないでしょうか。人間の住むあらゆる日常の場所、台所にも広場にも市場にも、あらゆるところに神はいるのです。ブリューゲルの絵はまさに日常の一コマを切り取ったものなのです。
善悪を超越した神の善意
マタイの福音書に有名な次のことばがあります。
天の父は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも不正な人にも雨を降らせる。
つまり、天の父である神は、善人をも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも不正な人にも雨を降らせるからです。なぜなら、人間は、善と悪を同時に持ち同時に働かせる力を持っているからです。
この世は神の活動の舞台でもあります。なぜなら、すべての人間は神の恵みのもとにあるからです。
では、なぜ神は善悪の差別を超えて万人に、特に敵でさえも一方的に善いことをし続けるのでしょう。それは、人間自身が善人であり、悪人であるからです。
ただ、善人だけの人などこの世にはいないということです。必ず、悪行をすることで、心は入れ替えることができるのです。なので、罪は最初から赦されているのです。神はすべて見通していたのです。
神は一人ひとりの中に入って働いています。ただ、その働きが自分の中に働いていると自覚できた人は、神の国にはいった人です。
おわりに
神は見たものがいないが、神に出会った人はいるはずです。神はまさに神秘です。そういう以外にありません。人間には見えないからです。ただ、自分がこの宇宙に存在しているということは、神秘であり奇跡であることは事実です。
何だか知らないけれど、自分は呼吸をし、心臓は鼓動していることぐらいはわかります。しかしなぜ動いているのかとかは人間にはわからない世界です。
つまり、神か何かわからないけれども、何か大いなるものに生かされていることは確かにわかります。神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底なのです。
それに対して人間である限りわからないのです。そこに理屈は成立しません。「お前はなぜ生きているか」と千年問い続けても謎です。私は生きるから生きる(ich lebe weil ich lebe)としか答えられないのです。
ただ、「在らしめられて在るもの」は、小さくされたものとともに歩まなければならないのです。『ネーデルランドの諺』の絵のごとく、その答えは、庶民の生活の中にたくさん詰まっています。
名もなく小さくされたものとともに歩むものこそ、神の働きとともにあるのです。人間は、この世界にただ在るだけでなく、「在らしめられて在るもの」だからです。