目次
- はじめに
- 命の源にあるもの
- ちりと梁とは
- 自分を所有するということ
- おわりに
はじめに
この絵は『農民の鳥の巣取り』(Der Nestausnehmer)というタイトルの絵です。初期フランドル派のピーテル・ブリューゲルが1568年に板状に油彩で描いた絵画です。
本作は一見、牧歌的な雰囲気に満ちていますが、前景の純朴そうな青年と対照的に、鳥の巣を盗んでいる男が木の上にぶら下がっています。
これはネーデルランドの諺に次のような一説があり、それを暗喩したものといわれています。
Dije den nest Weet dijen weeten, dijen Roft dij heeten 巣のありかを知る者は知るが、捕る者が巣を手にする
Cf. R. Rucker, “Notes for Ortelius and Bruegel” (2011), p.55
この諺は、能動的でよこしまな人物と、逆境にもかかわらず高潔で受動的人物を教訓的に対比しているのです。
この能動的というのは、自己の欲望のままに盗む行為いう意味があります。一方、受動的というのは、神に生かされてへりくだって生きるという意味があります。
神に生かされて生きるとは、生も死も自分の意志で能動的に働いてこの世に存在したわけではないのです。生が、「在らしめられて在る」という働きによって存在しているとしたら、死も同様に根源からの力が働いているということです。
命の源にあるもの
人が生きる(存在する)とは、ただ毎日食べて寝て仕事をしての繰り返しでしょうか。そうではないでしょう。人はいつでも他者との関係の中で、助け合いながら存在しているのです。
人は、存在を肯定されてはじめて何とか生きていくことができます。つまり、他者との愛し愛される関係の中で暮らして生きているのです。それだけ弱い存在でもあるのです。
ただ単に、生きている存在とだけの関りではなく、死者とも関わり合い励まされて生きているのです。それは亡くなられた近親者だけでなく、身近な愛読書を通しても深くかかわりあう関係にあるのです。
それこそ、根源から生まれて、根源へと帰る存在である事実から、生かされているという根源からの愛を感じる存在でもあります。
『農民の鳥の巣取り』からみえる命の源とは、悪事を働く者もそれを指摘する輩も、同じように生かされて存在していることを忘れています。神は善人も悪人も同じように敬います。
その根本にあるのが、いのちの源から出たものは、すべて同じ穴のムジナです。善人を装う若者も、目の前の川に落ちることを知りません。
「人をさばくな。自分がさばかれないために」(マタイ福音書7-1)の隠喩でもあるのです。
ちりと梁とは
新約聖書のマタイによる福音書に次のような記述があります。
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
この話の教訓は、偽善、傲慢、他人を裁く行為の戒めです。他人の目に入ったごみを取り除こうとする者が、自分の目にはもっと大きなゴミが入っていることに気づいていないのです。
『農民の鳥の巣取り』の絵は、鳥の巣を摂ろうとする者は、傲慢で、それを指さすものは偽善という隠喩(メタファー)として示されているのです。
鳥の巣を取ろうとする者は確かに罪人であることはわかります。しかし、それを指さしている善良で純朴そうな農民がなぜ偽善者なのでしょうか。
だれもが、人の悪事はよく見えるものですが、自分の悪事は見えません。その証拠に、自分の足元の直前に川があることがわかっていません。放っておけばこの若く純朴な青年は、川に落ち、溺れるかもしれません。
自己を所有するということ
私たちは自己を所有することができるでしょうか。仮に所有できるとしたら、「モノ」になり下がります。モノはいつでも他者に取り込まれ、もてあそばれ、必要がなくなればいつでも処分の対象になるのです。
なので、モノでない人間は他者を絶対取り込めないばかりか、自己をも取り込めないのです。その証拠に、自己の意思に反して、病魔が襲い掛かるのです。そこで初めて自己が死すべきものであることが自覚されるばかりでなく、自己が自己でないことを自覚するのです。
なので、実体としての私などというものはどこにもないのです。私というものはいつでも他者との関りにおいて、かけがえのないものになった時に、私になるのです。
そういう意味では、カントのいう「他者を殺すな」という命令が自己の根源から発しているのです。人間は絶対的な道徳的な命令が与えられているというのです。これは理屈では考えられないのです。
さて、『農民の鳥の巣取り』の絵は、前景の若者が、まるで勝ち誇ったように、悪者を指さしているのですが、自らも鳥の巣取りに森に来たことは明白です。
なぜなら、右手に持つ棒は巣取り棒であり、腰にぶら下げている入れ物といい、地面にある麻袋はおそらく鳥の巣とともに捕獲したひなであり卵があるかもしれないのです。
まさに、聖書の教訓通り、「あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にもその量りが与えられるであろう」と。
おわりに
ブリューゲル『農民の鳥の巣取り』の絵画を基に、その絵に隠された教訓と人間の本質について考えてみました。
ブリューゲルはそれまでの中世絵画の主流を占めていた宗教画から抜け出し、生活者に視点を当て、とりわけ、農民という貧しい生活にまで降りて行って、本来のあるべき姿を映し出し、真実を伝えようとしました。
そこから得られた教訓は、偽善と傲慢、善と悪が人間の本質にあることがわかります。なので、だれでも善にも悪にもなり、泥棒と戒めたものが、実は泥棒よりももっと悪い極悪人だったということなのです。
なので、他人を裁くほど、人間は完全ではないのです。欠陥を持った人間同士はお互いの悪いところは助け合っていかなければ生きていけないのです。そのようにはじめから命令されているのです。
自分がへりくだることしか、他者との良好な関係は作れないのです。なぜなら、他者はいつ高みにいるからです。自分が最も罪人であるという意識に立たなければ、他者との関係は対等になりません。
それに関して大司教アウグスティヌスは次のように言っています。
私は弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。意志することもできません。それどころか何が善であるかを知ることもできません。どうかあわれんで、私を照らしてください。みちびいてください。
アウグスティヌス=山田晶1996:40
自分の愚かさ、弱さ、醜さがわかると、主張する自分がなくなります。すべての人は自分の上にある。そういうことがわかると、自分が受けるどんな苦痛も当然受けるべき呵責であると考えるようになります。