たった一枚の絵から垣間見える人間の本質~ブリューゲル『盲人の寓話』を通しての超哲学入門一歩手前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 律法と行為の違い
  3. 貧しいものは幸いである
  4. 金力と孤独
  5. まとめ

はじめに

この絵は、『盲人の寓話』(Parabola dei ciechi)というタイトルです。初期ブランドル派の巨匠ピーテル・ブリューゲルの作で、死の前年1568年に制作されたものです。

描かれているのは盲人ですが、宗教的な盲目の寓意を現しているとされ、「マタイ福音書15:14」を典拠しています。

彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むだろう。

マタイ福音書15:14

この作品は、盲人自体を揶揄やゆしているわけではなく、当時イエスの教えを無視したパリサイ人を「盲人」と呼び、物事の正しい視野を見失った点を揶揄したものです。

なので、真の宗教(カトリック)に盲目になった民衆を暗喩あんゆしているのです。「盲人が盲人を案内したら、2人とも穴に落ちてしまう」ことをこの絵は物語っています。

ブリューゲルの本作品をよく見ると、6人の盲人たちの列が描かれています。先頭のリーダーは、不幸にも仰向けに小川に転落しています。連鎖反応で3人目の盲人の足元もおぼつきません。4人目、5人目の盲人も肩に置いた手に不安を覚えています。

それに比べ、何の不安もなく歩を進めるのは最後尾の盲人だけです。ブリューゲルは盲人一人ひとりの表情や顔や目のあたりの特徴を丁寧に表しています。眼球がえぐれてないものや、眼球が委縮したもの、服装や持ち物に至るまで見事に描き分けられています。

また、本作の背景に聖堂を配し、その聖堂が後にシント・アンナ聖堂であることと、その近くに聖エリザベート施療院があったことがわかり、その盲人施設の方だったようです。

律法と行為の違い

ブリューゲルが生きた17世紀は、宗教改革の嵐が吹き荒れていました。民衆にも信仰生活に動揺と不安をあたえ、異端者たちであふれていました。なかでも、ファリサイ派は福音書に登場する人物です。

ファルサイ派の人は聖書に告げている掟を順守することに熱心な「罪人から分離された清らかな人(ファリサイ)」でした。しかし、イエスとたびたび衝突を起こしています。

なので、それらの人は形式的には律法の掟を実行していましたが、「律法の精神」を本当に理解していたかは疑問です。というのも、自分が自分で正しいと思っていたにすぎなかったようです。

その証拠に、罪人を見下すばかりか、自分以外の人を下に見るという態度をとっていたからです。イエスの疑問は神の前で自分は正しい行いをしているかどうかだったのです。

実際は、自分は神の前で至らない人間であるという自覚があるかないかにイエスは着眼点においていました。したがって、「自分は神の前で至らないものである、罪、咎めのあるものである」ということだったのです。

つまり、人の作った律法は、それだけ厳格に守ったからといって正義の人ではないのです。イエスの言うことは「律法の精神」を本当に理解しているかどうかでした。

ファリサイ派の人たちは、自分が絶対に正しいと思い込んでしまったからです。なので、自分を基準に考えてしまい、傲慢で高ぶる者になっていたのです。

貧しいものは幸いである

まずここに描かれている6人は、盲人施設の方です。最も貧しく、最も虐げられた、最も弱い方です。

しかし、イエスは「貧しいものは幸いである」といっています。

福音書には「貧しい人々は幸いである。飢えている人々は幸いである。泣いている人々は幸いである。新約聖書ルカ福音書6・20-21

金持ちと違って自分を守ることができない貧しい人は、他者と助け合わなければ生きていけません。当然そこに弱さと弱さをさらけ出したもの同士の真の触れ合いが生まれます。

一方、金持ちは、人を力で支配しようとします。金と力で他者を支配します。なので、金持ちは本当の他者に触れることはできないのです。

しかも、自分のみじめな正体を他者に開き、その自分の弱さをさらけ出したとき、人は本当の人に触れることができるのです。

そういう意味で、貧しい者は幸いで、お金持ちは不幸なのです。確かにお金持ちに人はたくさん集まります。しかし、いざその人が事業に失敗したりしてお金が無くなってしまったらどうでしょう。

おそらく、お金目当てに集まったような人は一目散に姿をくらましてしまうでしょう。そこには、人と人との結びつくはありません。

その逆に、貧乏人は貧乏人同士が助け合わなければ生きていけないために、本当の人と人とのふれあいが成立するのです。お互いが、かけがえのない人となるのです。

金力と孤独

金持ちになると誰でも保守的になります。なぜなら、自分を守るためにたくさんの武器を持つようになります。大きなお城を築き、周囲には壁を張り巡らすのです。

日本の城だけでなく世界各地で古代から中世にかけて大きな城が今でも残っているという事実が物語っているのです。それというのも、金持ちは力によって他者を支配するのです。

城の主になって人々を金の力で自分の周りに集め、人垣となって城を守らせるのです。主人の機嫌を損ねたら殺されるかもしれないので、上辺だけ従うようになります。

しかし、腹の底では「嫌な奴だ」と思っています。今の会社組織に似ているところがありませんか。嫌な上司でもお金のために我慢している人がほとんどではないでしょうか。

だれでもそういう人に心を開く人はいません。相手を支配するという姿勢をもったら、そんな人を愛する者はいません。なので、金持ちは孤独なのです。ただの孤独なだけではなく、だれも相手にされないという2重の意味で孤独なのです。

愛は支配とは相反する概念で、反発する関係です。愛は自分の力でもぎ取ることはできません。ましてや、金力を使ってもぎ取ったとしても、それは偽りの愛でしかないのです。

まとめ

ブリューゲルの描いた『盲人の寓話』を通して人間の本質について考えてみました。ここに描かれていた盲人とは異端者(ファリサイ派)を現し、律法を守るだけではただの盲人と同じだと警告しているのです。

当時のファリサイ派の人たちは、律法の順守に頑なで、弱い者を徹底的に罰するというものでした。イエスは律法の精神をまったくわかっていないと指摘します。

本来の律法は、虐げられた盲人のような弱者をたすけるためにあることを強調したのです。

ファリサイ派の人たちは、貧しいものとともにへりくだるという律法の精神を怠り、傲慢で高ぶる者だったのです。

律法の根底には愛の精神が流れており、自分の力でもぎ取ろうとした人たちの反発を買いました。

本当のかけがえのない人とは、盲人のような弱者同士が助け合う姿こそ本当の交わりなのです。神の正しい導きに照らされたその歩みは、けっして小川に転落することはないという戒めだったのです。

最後にブリューゲルと同時代のカトリックの女性詩人アンナ・ベインスは彼女の詩集の中で次のように記しています。

主よ、盲人たちに汝の小径を示す新しい灯を汝の教会に灯してください。これまでに今ほど盲目について聞かれることがあろうか。人間のいるところには、それだけ多くの信仰がある。民衆は異端者たちに夢中になっているため、ほとんどあるいは何の実りもない。すべては異端者たちの不純な空気に汚れている

アンナ・ベインス「リフレイン詩集


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