ペロー童話『サンドリヨンまたは小さなガラスの靴』から読み解く人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 弱さに現れる神
  3. ヘラクレイトスの一喝
  4. サンドリヨンのはからい
  5. まとめ

はじめに

サンドリヨンはシャルル・ペローが書いた童話です。30年後に英訳され、有名な『シンデレラ物語』に改名されています。

サンドリヨン(シンデレラ)は継母ままははとその娘である姉たちにいじめられていました。ある時、城で舞踏会が開かれ、姉たちは着飾っていきます。泣き崩れるサンドリヨンの前に妖女(魔法使い)が現れ、美しい衣装と馬車が用意され出かけられることになります。

サンドリヨンは城で王子に見初められ、階段に靴を忘れて帰ります。王子は靴を手掛かりにサンドリヨンを探します。とうとう王妃となったという話です。

傲慢でわがままな継母と性格までそっくりな2人の娘は、腹違いの心がけの良い妹のやることに我慢なりません。なぜなら、サンドリヨンは2人の姉とは対照的で、きれいでしとやかだったからです。

そこで母親は、サンドリヨンに女中のする仕事をいいつけ、屋根裏の蜘蛛の巣だらけの部屋で寝泊まりするようにいうのです。

その娘も母親の性格そっくりの傲慢でうぬぼればかりが強く、贅沢三昧に育ちました。いつもいじめを受けてはサンドリヨンは、かまどの前で泣いていたので灰かぶり(サンドリヨン)とからかわれたのです。

さて、ここからが哲学です。本来の愛は力を振るわないものなのです。力や権威を振りかざせば暴力による支配となるから。ゆえに、愛は願い求める者、祈り求める者に無償に送られるます。

なので、サンドリヨンがまさにその境地だったといえます。かまどの前でいつも泣いていたサンドリヨン(灰かぶり)は救いを求めたしいたげられた者だったのです。

弱さに現れる神について

この世で最も弱い者、最も虐げられている者、最も孤独な者、最も見捨てられた者の姿をとって神は現れるといいます。聖書(マタイ伝)に次のような言葉があります。

あなたがたは、わたしが空腹くうふくのときにべさせ、かわいていたときにませ、旅人たびびとであったときに宿やどし、 はだかであったときにせ、病気びょうきのときに見舞みまい、ごくにいたときにたずねてくれたからである。

 そのとき、ただしいものたちはこたえてうであろう、『しゅよ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹くうふくであるのを食物しょくもつをめぐみ、かわいているのをませましたか。

 いつあなたが旅人たびびとであるのを宿やどし、はだかなのをせましたか。 また、いつあなたが病気びょうきをし、ごくにいるのをて、あなたのところまいりましたか。 

すると、おうこたえてうであろう、『あなたがたによくっておく。わたしの兄弟きょうだいであるこれらのもっとちいさいもののひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。

マタイ25章35-40

https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/nt/matt/25?lang=jpn

神は小さい者の姿を通して現れるといいます。小さい者とは虐げられた者、見捨てられた者、最も弱い者のことです。

現実世界では、神はそのような姿を通して現れます。なので、力を持つものは、そのような者を最も毛嫌いするのです。なぜなら、汚い、下品なものというふうに見ているからです。

継母と実の娘二人は、サンドリヨンとは腹違いのために関わりたくありません。虐げられ、最も弱い者となってこの世に現れたといってもいいかもしれません。

でも、神は見捨てませんでした。妖女(魔女)を送り、見事に願い事はかない、王子に見初められ、王妃となるのです。

ヘラクレイトスの一喝

ところで、古代ギリシャに哲学者ヘラクレイトスという人がいました。その方の有名な逸話が残されています。ある日、大勢の人がアテナイの学堂に彼の知恵を聞こうと押しかけます。

ところが、もうすでに年を取り、彼はかまどで火にあたっていたのです。みんながよぼよぼの爺さんを見て、失望して帰ろうとします。

その時ヘラクレイトスが一喝して「来たれ、ここにも神がいます」と叫んだという話です。

ヘラクレイトスが暖をとっている竈の炭火の中にも神はいるというのです。

その意味するところは、神はどこにでもいるということです。あなたの中にも、庭の一輪の花にも、森や山や林の中にも、どこにでも神はいるというのです。

かの、アリストテレスは自然本性の働きこそ神の働きだと考えました。それは、畑に種をまくと、自然の力で大きくなり、麦は大きくなるのは、神の働きだと考えたからです。

そんなのあたりまえだとお思いでしょうか。種をまいた人はどうして大きくなるのか知らないのです。知らないけれども種はどんどん大きくなり、やがて麦となるのです。

そこに「はからい」が働くと考えることの方が自然です。その自然の恵みこそ「神のはからい」なのです。

サンドリヨンのはからい

「サンドリヨンのはからい」とは何でしょう。たとえば、サンドリヨンがいじめられ、竈の前でいつも泣いていたことに対して神は見ていました。まさに、小さくされたものだったのだったのです。

神は力を振るうことはできませんが、救いを求め、虐げられた者に対して神という働きが発揮されるのです。それを宿すサンドリヨンに対して「神の国に入っている人」だということです。

たとえば、太陽系の周りを天体が回っています。太陽の光は月にあたり、月が光るのです。月そのものから光を出しているわけではありません。

それと同じように、神はどこにいるのかわかりませんが、光が当たったところに神の存在を感じるのです。サンドリヨン自ら光を発しているわけではなく、神によって光が当てられているのです。

たとえば、サンドリヨンがお城の階段にわざと靴を落としたわけではありません。偶然に落とし忘れてしまったのです。これも実は神の働きなのです。

それによって、サンドリヨンは王子に探し出されるわけです。人生には神の働きが満ち満ちているけれども、その働きは見えません。

「サンドリヨンのはからい」こそ神のはからいなのです。愛の働く場所こそが神の国だということです。

まとめ

花が咲くとか、麦が実るとか、雨が降るとかは、みな自然の法則に従って働いています。しかし、これらの働きは、同時に神の働きだとしたらどうでしょう。

人間が大地に種をまき、あるいは、自然の力で種が大地に落ち、知らず知らずのうちに種は自らの力で大きくなっていきます。

しかし、そこに神の力がはたらいているとしたらどうでしょう。それこそが神の国だということです。

自然本性の力によって実り豊かに麦はなり、稲が実るのです。その力こそが神の力だということです。

サンドリヨンは自らの力で王妃になります。しかしその力も実は神の力が宿っているということです。

イエスの言葉に「いと小さき者になすことは、私になすことだ」(Matt.25:24)という言葉があります。

この本当の意味は、その人の人となりを見るには、自分と同等の者より目下の者をどう扱うかにかかっているのです。

その人の人となりは外見ではわかりません。その行動に現れるのです。その人が善い人か悪い人かを見極める一番の方法は、「その人が自分より目下の者をどう扱うか」できまるのです。

私たちは「サンドリヨンのはからい」を忘れてはいけません。神の働きはあらゆるものに働いているのです。そっと身近な人は見ているのです。


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