目次
- はじめに
- 自分の頭で考える勇気
- 目的自体として生きる
- それ自体としてよいものは何か
- まとめ
はじめに
『ピノッキオの冒険』は100年以上前の児童文学で、今なお読み継がれる子供に人気の高い作品です。
そのピノッキオが作られたイタリアは、王権国家として、あまりにも庶民に対する理不尽と貧困がその背景にありました。
作者カルロ・コローディ(1826-1890)はその理不尽な操り人形のようなものになりたくないという思いがあったのではないだろうかと想像がつきます。
なので、ピノッキオという物語を通して、社会に対する不満を表していたとも読み取れます。
それは、国家のいう通りのまるで操り人形ではなく、本当の人間になりたかったのではないでしょうか。
子どもが、大人に対しての不条理を様々な形で反発し、もうこの社会で働きたくないと思うのも当然で、学校にも行きたくないという形となって表れるのです。
当然、親に対する不満と周りの大人たちへの反発となって物語は展開していきます。父親のジェベットさんにピノッキオと名付けられ、大事にされたにもかかわらず、反発して家を出て冒険の旅に出るのです。
自分は父や社会に対して、決して操り人形ではない、自分の頭で考え行動する人間なんだという主張が描かれているのです。
自分の頭で考える勇気
さて、ここからが哲学にはいります。子どもから見た大人は何と理不尽な押し付けばかり。かといって、上ばかりの言いなりになるなど、なんとも情けない人種と見ているかもしれません。
あんな大人にはなりたくない。特に18世紀のイタリア社会は毎日の暮らしに翻弄され食っていくのがやっとの社会でした。
ピノッキオが見た大人たちは、自立など幻ではないかという思いと、働くのはごめんだという気持ちだったのではないでしょうか。勉強などして何になるというのが正直な気持ちだったのです。
しかし一方でこうした理不尽な社会から抜け出し、人間や社会を支配していた考えや価値観を疑い、それらから自由になろうとする動きも芽生えていったのです。
ピノッキオの冒険の物語は、最初は親や学校などの社会に対して反発する少年でした。もちろん勉強よりも人形芝居や大人たちのすることに興味を持ち、しまいに騙され殺されそうになるのです。
そんな中で、ピノッキオは育ててくれた父親の愛情を思い出し、回心するのです。殺されそうになっては何度も何度も女神に助けられます。やがて、操り人形から人間に戻ることができたのです。
18世紀の抑圧された、あまりにも貧困社会がはびこるイタリア社会を痛烈に批判していたのかもしれません。
おそらく、ピノッキオは作者自身だったのでしょう。なぜなら、なぜこんなに貧しいのか、明日食べるものすらない暮らしに疑問を持っていたからです。
「目的自体」として生きる
ピノッキオは嘘をつくと鼻が伸びるようになっています。そこに理由などありません。ただ、ピノッキオは親のいうことを聞かず好き勝手に生きてきたころは、周りの大人たちに次々と騙されるのです。
ところで、ジェペットおじさんには妻がいません。最初から独身なのか子供もいません。ただふしぎに、母のような女神がピノキオが危機に陥るたびに現れるのです。
大きなサメに飲み込まれたときも、ロバにされて殺されそうになった時もなぜか救いの手が差し伸べられるのです。
その根底には、「正直に生きろ、うそをつくな」という女神の思いが見え隠れするように思われてなりません。
悪いことばかりしていたピノッキオが、父や母(女神)の愛情によって、人や動物にも愛情を注ぐやさしい人形になっていきます。
人間らしさを取り戻すにつれて、本当の自由とは何かを作者は訴えているようです。人間は「目的自体」だということです。それは、決して人をモノとして扱ってはならないということです。
ピノッキオは木の人形です。つまり、モノとして扱われていたにすぎません。なので、人形劇団に売られ、役に立たなければすぐに廃棄されるというモノに過ぎなかったのです。
ところが、うそをつくたびに鼻が伸びるため、そのつど正直に生きろと訂正させられるのです。おそらく、女神がそうさせたに違いありません。
その女神は母であると同時に、ピノッキオの人格が手段でなく目的として「人格こそが絶対的・無条件的な価値」を持っていることを示唆したのではないでしょうか。
それ自体としてよいものは何か
「目的自体」の定式とは、「君が、君の人格およびすべての他者の人格の内にある人間性を、けっして単に手段として扱うことなく、常に同時に目的として扱うような、そのようなしかたで行為せよ」というのがカントの定言命法です。その中に「それ自体としてよいものとは何か」という答えがあるのです。
人間は決して物自体ではなく、目的を持った人格であるという在り方が基本になければ、この世は常に搾取と強奪の世界になり下がってしますのです。
まさに18世紀のイタリアの世界を映し出しているのです。その中で、物自体として生きなければならなかったピノッキオにとって、いつでも死にさらされ、売り買いの真っただ中にあったのです。
しかし、うそから脱却し、正直に生きる姿を見た女神がピノッキオに人格を与えるのです。
しかし、カントは人間の自由意思については感性的衝動的な意思をもっており、いつでもピノッキオのように木製人形になる下がりかねないと警告しています。
そうならないためには、うそをつかず正直に人格的、理性的に生きるよう意志しなければならないといっているのです。
なので、「汝の人格の中にも他の全ての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、けっして単に手段としてのみ用いない、という風に行為せよ」といっているのです。
まとめ
それ自体として善いものとは、自らが正直に生きろ、より善く生きろということです。この考えはソクラテス以来の「ただ生きるのでなく、より善く生きなければならない」に通じているのです。
報酬や賞賛としての幸福ではなく、自分自身の善悪の基準に照らして自分の信念や考えに従って行動することを意味します。
正直に生きるとは、自らの信念を貫き通して生きることであり、報酬を当てにしての生き方は自らの価値観に嘘をつくことです。つまり、すでに人格を持った人間ではなく、自由という「人間である」ことを捨てた操り人形になり下がることです。
それだけ、自由とは価値のあるもので、自らの価値観を貫き、自らに正直に生きる生き方です。
なので、自らの価値感に対して目的として生きることで、同時に、他者に対してはそれを手段として扱ってはならないのです。なぜなら、他者も「目的自体」として生きているからです。
ピノッキオが嘘ばかりつくとなぜか鼻が伸び続けるのは、自らを正直に生きなければならないという戒めであり、他者の人格を目的として大切にしているという表れなのです。
なので、他者は目的を持った人格として大切にし、けっして手段としてモノ扱いにしてはならないのです。
「人間である」とは「人間になる」ことです。カントのいう「自由意思を持つ」ということは、感情的にもなれば、理性的にもなることができるということです。
そのためには、人間は生涯かけて知恵を学ばなければならす、傲慢という我執を退けなければならないのです。
ピノッキオが人形から人間になれたのは、正直に生きる生き方を学び、傲慢を廃し、謙虚さを守り続けたからに他ならないのです。それは自らの意思ではなくいつもやさしく見守り続けた女神(母)の意志だったかもしれません。
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