目次
- はじめに
- 人間は自己でさえない
- 貧しいものは幸いである
- 他者は切り離されたもの
- まとめ
はじめに
グリム童話の中でも『貧乏人と金持ち』ほど人間の強欲が破滅につながることを著したものはありません。
物語の概要はおおよそ以下のようになります。
神様が宿に泊まることになり、一つは金持ちの家、もう一つは貧乏人の小さな家。金持ちの家は、みすぼらしい身なりだったため断られます。一方の貧乏人の家は、心よく泊めてくれ、親切なもてなしを受けます。とても親切にしてくれたお礼に、神様は3つの願いをかなえます。きれいな家に生まれ変わって幸せに暮らすのです。https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/binbonin_to_kanemochi
この物語の中に人間の本質が見え隠れしています。人間は傲慢で高ぶる者だということです。嫌、そこまで決めつけなくてもとお考えのあなたこそ、本心を隠しているだけです。
なぜなら、人間は、食べなければ生きていけないという宿命を背負っているからです。食べるという欲求こそがすべての欲望の土台になっているからです。
ただ、欲望は時に暴走します。傲慢や高ぶる者に変化するのです。少しでも多くのモノやお金のために生きることになるのです。
金持ちが天の国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
マタイ19:23-24
金持ちの家は、みすぼらしい神様の身なりを見ただけで、人を判断してしまいます。ところがどうでしょう、貧乏人の家は、心よく泊めてくれただけでなく、疲れが取れるよう、自らのベッドを差し出して、自分たちは、わら小屋の急ごしらえのベッドで休むのです。
それを見た神様は、この親切な民に3つの施しをするのです。それによって大きな家に生まれ変わりました。
人間は自己でさえない
自身がガンにり患してその辛さを書いた『身体のいいなり』という内沢さんの本の一部を紹介します。
身体というやつは、なかなか厄介な代物だ。自分のものであるはずなのに、全然思うようにならない。脳からの指令を上手く伝えられない。気力で乗り切るとがんばってみても、身体が痛みというかたちで、無理ですと言ってくる。身体が心を支配して、自己を主張するかのようだ。病気ならなおさらだ。病気は時も人も選ばずだ。
出典:『身体のいいなり』内澤旬子・朝日新聞出版
ガンは今や2人に1人がかかる病気です。今や隠すという病気ではなく、早期発見、早期治療の時代に入り、生存率も年々高くなっています。
そんな中で、自分の身体であっても思い道理にならないということが、病気の厄介なところです。そのことに気づくことで、自分がコントロールできないものであることが理解されるのです。
そこでようやく人は、自己でない自己と出会うことになるのです。他者とつながっていることに気づくのです。我執という自我を支えているもう一人の自己との出会いです。それが、真の自己であり本当の自己(神)ということになります。
そこに自分自身の命の執着までも捨て去った時に、他者を支えるというもっとも本質的な自己に迫ることになるのです。
なので、「貧しいものは幸いである」という意味が理解できるのです。なぜなら、我執につながるものを持っていないからからです。他者を支える以外生きる術がないからです。
貧しいものは幸いである
聖書にこんな一文があります。
うぬぼれは破滅に先立ち、傲慢は没落に先立つ。貧しい人とともにへりくだることは、高ぶる者とともに分捕り品を分けるのに勝る。
出典:旧約聖書『格言の書』16-19
今の社会は、少しでも他人より多くのお金や名誉や地位などに血眼になっているのではないでしょうか。それは他人を支配し、奪い取る行為でもあるのです。
その様な環境の中に渦巻く人間関係は、嫉妬や怒り孤独といった感情に苛まれることになるのです。
一方で、たとえ貧しい生活でも、他人へのやさしい思いやりや気持ちを持った環境であれば、明るく楽しく過ごせるでしょう。
人間は精神的に病んでしまっては元も子もないのです。そのような精神疾患を抱えている人も増えているのも確かです。
さて、どちらが幸せだと思いますか。社会的地位や才能、美しさ、魅力も全部「力」によるものであることを理解すべきです。
なので、力による支配は、そこに優しい思いやりの入る余地はありません。嫉妬や怒りが渦巻き、少しでも弱いものを踏みにじる社会です。
逆に「力」のない者とは、地位や名誉やお金、一切の権力にまつわるものは一切ないのです。しかし、そういう人に誰も近寄らないでしょう。
しかし、そのような環境で助け合って暮らす人々は、助け合っていかなければ生きていけないのも事実です。
他者は切り離されたもの
他者は切り離されているとは、深淵があるということです。自分と他人との関係は、私の一部とみなすことはできないという意味です。絶対に同化できない存在として他者がいるということです。
もう少し具体的に言えば、他人は何を考えているかわからないということです。親兄弟はもとより、自分の子供さえも同じです。なので、自分の子どもに対して支配的態度は取れないということになります。
人間というものは、自分ひとり(solus)を基本に世界と向き合っています。なので、世界を認識するとは自分を通してすべての世界を認識していることです。ですから、自分の関心のないものやことはこの世に存在していないのと同じだということになります。
それが、自由の基本的考えです。なので、自由はsolusというラテン語でただ一人の、見捨てられた、単独の、孤独者という意味なのです。自由を守るとは、孤独を守るということと同意です。
そこで、他者とは支配できない、力をふるうことのできない、認識できない、モノとして扱ってはならないということが理解できます。切り離された(solu)存在とはそういう意味が込められているのです。
なぜ、切り離されているのかという根底にあるのが、欲望です。個人は欲望の只中にあり、欲望が渦巻いている存在です。なので、生きるということは、すべて、自分を太らせる運動がはたらいているということです。
なので、切り離されていなければならないんです。もし切り離されていなければ、要望の渦の中に自分というものが巻き込まれてしまうでしょう。
まとめ
グリム童話『貧乏人と金持ち』を題材として人間の本質に迫ってきました。それは、人間が生きるということに張り付いた欲望をうまくコントロールできないことが原因でした。
人間は、金欲や名誉欲など、切っても切り離せない欲望の只中にあり、特に食欲はその最たるものです。それをなくしたら無になって死すべき存在になってしまうからです。
ただし、他人がいるおかげで、自己の暴走を抑えることもできます。そういう意味では他人とは絶対者(神)であり、常に、高みにそびえたつ存在として君臨しているのです。
グリム童話の中の金持ちの宿の主人は、お客をみすぼらしい身なりのために、卑しい目で見ていました。一方の、貧乏人の小さな宿の主人は、お客(神さま)を高みに見ていたのです。
自己は他者に直面した時、「恥じらい」や「うしろめたさ」を感じるものです。その意味するものは、力をふるえないもの、彼方のものであるということを意味するのです。
なので、貧乏人の小さな宿の主人は、みすぼらしい身分に関係なく、だれ彼ともなく、とても親切な対応をするのです。
それで、神様は金持ちに背を向け、道を渡って小さい家に行き、戸をたたきました。そうするとすぐ、貧しい男が小さな戸をあけて、旅人に入るようにいいました。「うちに泊ってください。外はもう暗いですよ。今夜はこれ以上行けませんよ。」と男は言いました。神様はこれが気に入ったので、中に入りました。貧乏人のおかみさんが神様と握手し、歓迎して、「どうぞお楽になさってください。あるもので我慢してくださいね。さしあげるものがあまりありませんが、あるものは心をこめてお出ししますからね。」と言いました。それからじゃがいもを火にかけ、煮ている間に、じゃがいもに少しミルクを入れられるように、ヤギの乳をしぼりました。クロスが敷かれると、神様は男とおかみさんと一緒に席に着き、食事を楽しみました。というのは食卓でみんな楽しそうな顔をしていたからです。
出典:グリム童話 グリム兄弟のすべてのおとぎ話https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/binbonin_to_kanemochi#google_vignette
自分の存在は、どこからかの贈り物です。だから、自分自身の力で生きているわけではないのです。なぜなら、やがて年を取り力を失いこの世から去る存在だからです。
この世に送り出され、この世から奪いさられるという、自分自身のうちに存在根拠をもっていないことが理解できます。そういう意味では、私たちは、無から無へ向かう旅人(via)でしかなのです。