グリム童話『貧窮と謙遜は天国へ行く路』から見た人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 命の源にあるもの
  3. かけがえのない人
  4. 本当の交わりに入れる人
  5. 豊かさと幸福
  6. まとめ

はじめに

この『貧窮と謙遜は天国へ行く路』はグリム童話の中でももっとも人間の本質を突いた内容になっています。

そもそも、グリム童話は19世紀初頭、グリム兄弟が大学在学中に、メルヒェンに興味を持ち始めたところから始まります。1812年『子どもと家庭のメルヒェン集』Kinder- undHausmärchen der Brüder Grimm第1巻(87話)が刊行されました。

この童話のほとんどは口承や伝承によって収められたものです。中でも、語り手のマリーは、ハッセンフルーク家のマリーばあや・・・とされ、生粋のヘッセン農民からの言い伝えを取材したものです。

なので、小さい子供から大人までもためになる昔話として少しずつ民衆の間で広まっていきました。

なかでも、メルヒェン(昔話)の口承者として、上流階級の女性(マリーやフィーマン)が多くを担い、読み書きができ話がうまい教養ある人物でした。

ただし、下級階層である下僕や女中から聞いた話も多く、あくまでも庶民の親しみやすいものだったようです。

このドイツを中心とした民話集は、世界中に広まり、童話というジャンルを超えて子供を中心に広まっていきました。

特に、今回の『貧困と謙遜は天国へ行く路』は人間の本質や道徳的な教訓を鋭く描き出しています。

聖書からの影響も色濃く反映されているばかりでなく、子どもたちに多大なる影響を与え続けています。

たとえば、人々の貧困と悲しみを見つめることで、天国に至る道は、貧窮と謙遜の中にあるという意味を与えたことは、現代社会への警鐘でもあるのです。

いのちの源にあるもの

さて、命の源にあるものとは、真の自己です。それは、自己の中の他者、自己を支え続ける他性です。なので、他者は私の中にすでにいるのです。自己はあらゆる他性をはじめから背負って生まれてきたのです。

そもそも、世界の始まりは、様々な民族の伝承によって、発展し、民族同士がお互いの存在を認め合ってきた証でもあります。

なので、昔話(Märchen)は単なる伝承ではなく、そこに命の息吹があることです。他者の存在の肯定を贈り続けることによって、人類は継承、発展してきたとも考えられます。

本来、メルヒェンも聖書も伝承としての物語です。なので、聖書の中に、これらのメルヒェンが入り混じっていることも確かです。

したがって、この世の様々な試練を経過して鍛えられ、育まれてきたことは、死をも超えた生命感がその奥底に流れていたことも確かです。

ところで、グリム童話『貧困と謙遜は天国へ行く路』では王子が自分を天国に入れてくださるよう頼むというくだりから始まります。

道でみすぼらしい老人に出会い、その老人曰く「貧しさと謙遜によってだよ」といわれるのです。

それは、ぼろを着て7年世間をさまよい歩き、みじめさがどういうことか知ることだとさとされるのです。

大司教アウグスティヌスも同じようなことを言っています。みじめさを知るときはじめて、そのみじめな自分のところまで神が降りてきて「あわれみ」の深さがわかるのだというのです。

哀れみの深さを理解するとは、腹が減れば、だれか情け深い人がパンを恵んでくれるかもしれないということです。必ずしも、恵んでくれるとは限りません。恵んでくれるとは奇跡に近いのかもしれません。

万が一恵んでもらえたら、その時、その人が神さまだとわかるのでしょう。そこに命の源があるのです。

かけがえのない人

その時、人はかけがえのない人と出会うことになるのです。かけがえのない人とはどういう人のことでしょうか。

人生にはいろいろな人と出会います。金持ちの人とか、秀才だとか、美人だとか、強そうな人、威張っている人などです。

逆に弱っている人、助けを求めている人、汚い身なりの人、苦しんでいる人などです。

かけがえのない人とはどちらだと思いますか。それこそ、自分が本当にみじめな状態にならない限りわからないのが本当ではないでしょうか。

聖書(ルカ10:30~37)に「善きサマリア人のたとえ」がある。おおよそ以下のようだった。

イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
(ルカの福音書10:30~37)

マタイによる福音書25
そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。

ここでかけがえのない人とは誰かがわかるのです。普段は聖人君主のような顔をした祭司や役人は遠目に通り過ぎるだけ。ところが、当時はよそ者扱いされていたサマリア人が気の毒に思い助けたというのです。

これを見てもお分かりのように、虐げられたものが、虐げられた者を助けることができるというのが真実です。このように、かけがえのない人とは、本当に偶然の出会いなのですが、虐げられた者、身分の低い者が半死半生の者をたすけることができるというたとえです。

本当の交わりに入れる人

本当に人と人とが交わることができるのは、金持ちとか、身分の高い人とか、強そうな人ではありません。なぜなら、自分の本当の正体が見えないからです。

本来、人間は本質的にエゴイストです。他人よりも少しでも強くなろうという支配の力がはたらくきます。この働き自体は、自分のお腹を満たそうとする生存欲求だからです。

しかし、人と人とが本当に交わろうとするためには、強さを無くさなければなりません。そのためには、自分が無力になって、一切の力を無くさなければならないのです。

ちょうど、ヨブ(ヨブ記)が家財産すべて強奪され、愛する家族は殺され、すべてを失った時が無の境地のことです。なので、半死半生で路上で倒れたような人でもあります。

その時、もしも助けてくれる人があれば、それこそ奇跡であり、望外の喜びに浸ることができます。その人こそがかけがえのない人です。

そうやって、今度は助けられた人が、そのように助けを求めている人を助けることができるのです。なぜなら、助けられた人でなければその境地はわからないからです。

自分の愚かさ弱さがわからることで、すべての人は自分の上にあるということがわかるのです。

本当の交わりに入れる人とは、自己は慙愧ざんきの中へ沈むほかなくなります。その時世界は転倒し、どんなあざけりも憎しみも当然受けるべき呵責かしゃくであると考えるようになります。

豊かさと幸福

人間は豊かさを求めて生きています。そのためには、お金を手に入れなければなりません。それは力によって他人との競争を強いられるということです。

それによって、人の欲望は際限なく力によって他人を支配することでもあります。お金は豊かになりますが、逆に心は貧しくなります。

グリム童話の『貧窮と謙遜は天国へ行く路』の中で、王子が「どうしたら天国に行けるのか」とみすぼらしい老人に尋ねる場面があります。

老人は一言「貧しさと謙虚さによってだ」というのです。その意味は、豊かになればなるほど、心は貧しくなるようにできているからです。

逆に、貧しければ貧しいほど、貧しいもの同士が助け合って生きていくしかないのです。そうなってくると、心はどんどん豊かになってくるのです。

なぜなら、お金もなく、食べるものがなければ他人に食べ物を恵んでもらうしかありません。それこそ、人間と人間の腹を割ったむき出しのかかわりが生まれるのです。

そこで、その人の人間性がむき出しになります。みすぼらしい姿をしている人にだれがものをあげるでしょうか。ほとんどの人は断るでしょう。そこに、みじめさの自覚があるのです。自分が最低の人間になった時に自分がいかに傲慢であったかが理解されるのです。

そこまで降りなければ、本当に自分というものに出会えないのです。そこで初めて、本当の自己に会うのです。みすぼらしい老人のいった「貧しさと謙虚さ」の意味を理解することになるのでしょう。

まとめ

人間が徹底的な弱者になった時、純粋に愛を求めるものになるでしょう。自分に頼ることができなくなれば、他者に助けを求めて叫ぶ以外にないのです。

このグリム童話では、王子が乞食になって、飢え苦しむまるで囚人同然の姿になった時がまさに「みじめさ」を実感するのです。

その時、神は現れるといいます。マタイ福音書25章に次のようなたとえがあります。

 あなたがたは、わたしが空腹だった時に食べ物を与え、のどが渇いていた時に水を飲ませ、旅人だった時に家に招いてくれたからです。 それにまた、わたしが裸の時に服を与え、病気の時や、牢獄にいた時には見舞ってもくれました。

すると、これらの正しい人たちは答えるでしょう。『王様。私たちがいったいいつ、あなたに食べ物を差し上げたり、水を飲ませたりしたでしょうか。 また、いったいいつ、あなたをお泊めしたり、服を差し上げたり、 見舞いに行ったりしたでしょうか。』

『あなたがたが、これらの困っている一番小さい人たちに親切にしたのは、わたしにしたのと同じなのです。』

いちばん小さくされた人たちとは、私(イエスキリスト)と同じく最も虐げられた、最も身分の低いもの。なので、そこに私が宿っていると同じですと言っているのです。

もしかりに、そういう人たちを蔑視し、さらに虐げる者は私(イエスキリスト)にしたことになるのです。

最後に王子はどうなったのでしょう。最も低い者になった王子は、喰うもののなく、さ迷い歩き、7年がたったので宮殿に戻ってきてます。

階段の下までたどり着いてまともに食べる者のなく、病気になり、死んでしまいます。しかしその時町中の教会の鐘が鳴り、ミサが行われ、王子は天国へと旅立っていきました。

みすぼらしい老人のいった天国へ行き路は、「貧しさと謙虚さ」だったのです。

マタイ福音書第25章の最後の審判の物語があります。飢えたもの、渇いたもの、旅人、裸の人、病人、囚人、孤児とか寡婦など、神はそういうものとして現れるといわれています。

最後の審判 - Wikipedia
Amazon.co.jp: 1812初版グリム童話(上)(小学館文庫) eBook : グリム兄弟, 乾侑美子: Kindleストア
Amazon.co.jp: 1812初版グリム童話(上)(小学館文庫) eBook : グリム兄弟, 乾侑美子: Kindleストア

タイトルとURLをコピーしました