アンデルセン童話『赤い靴』から見える人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

アンデルセン童話に『赤い靴』というお話があります。この話は、赤い靴の魅力にひかれた女の子が教会の儀式にそれを履いていきます。ある日、奥様の看病をせずに聖餐式にいき、そこでダンスをすると踊りが止まらなくなり、とうとう足を切断し、懺悔することになるのです。

この話は、自分の欲望のままに美しくありたいという思いに天使が雷を落とすのです。大事に育ててくれた年寄りの奥さんをほっておいて、舞踏会に出かけます。

しかし、老兵はそっと見ていました。カレンの踊りが止まらなくなり、踊り続ける羽目になるのです。とうとう靴を脱ごうにも脱げないため、足首ごと切ってくれと懇願します。

悔い改め、苦しみぬいた末に、とうとう寺の女中に使ってくださいと申し出るのです。やがて天使が現れ、光とともに天に召されます。

人間はみんな、力が強いとか、頭がいいとか、社会的地位が高いとか、金持ちであるとか、自分の存在を強くして、人を引き付けようとします。

カレンの履いていた赤い靴は、その象徴です。自分中心に物事を考え、自分を太らせ、きれいな服を着て、赤い靴を履いて、生きているのが人間の本当の姿です。

いや、僕は、私は違うという人はこの記事の内容をこれ以上読まなくて結構です。

人間が生きているということは、赤い靴を履くことなんです。いつでも自分を守って、自分の存在を強くして、人を押しのけて自分の居場所を確保しているのです。

なので、人間は「やましさの中で生きる」以外にないんです。「やましさ」なんてないという人は人間の本質を知らない人です。

自分は欲望とともに、罪を背負って生きていかなければならないという「恥じらい」がなければなりません。

赤い靴が意味するもの

そういう意味では、この赤い靴は人間の本質そのモノなんです。聖書にも同じような言葉が出てきます。

命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また、自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりたいせつではないか。

マタイ福音書6-26

人間はこのように悩み苦しむものです。毎日がその連続といっていいでしょう。そもそも、生きることは自分を太らせることだからです。

カレンは年寄りの奥様の足を何度となくけりつけたのです。それがもとで、奥様は重い病気にかかってしまいます。本来、カレンは看病して世話をしてあげる立場にありました。

ところがカレンは、赤い靴を履くと人が変わったように舞踏会に行ってしまったのです。しかも、奥様はもう助からないほどの重篤だというのに。

やがて、舞踏会に出たカレンは、踊りながら森の中へと天使によって導き出され、天使は「骸骨になるまで踊るがいい」と戒めます。とうとう首切り役人の家まで誘導されてしまいます。

カレンは、いっそのこと靴が脱げないなら足ごと切ってくださいと罪を懺悔するに至ります。とうとう、一週間泣きはらし赦しを請うのですが、それでも許されません。とうとう、自ら寺の女中となって無休で働くことを決意するのです。

はたらき続け、その間、賛美歌を歌い、お祈りを繰り返し、懺悔の日々を送っていました。ある時とうとう坊さんが現れ、お日様の光に乗って神様のところへ飛んでいきました。

レンは人のために尽くして、自分が消えてしまうくらいに、一生懸命に寺の世話をしていたのです。自分なんかもう頭から消えてしまった時に初めて、自分の存在が肯定されるのです

自分を大事にしていたころのカレンは、きれいに着飾って、自分をきれいに見せようとばかり考えていたのです。最後は靴に踊らされてしまったのでしょう。

人間の高さと低さ

おそらく少女カレンは、私以上に美しい人はいないと思っているに違いありません。赤い靴はその象徴です。なぜなら最も目立つ色であり、いろい靴を履く儀式でさえ赤い靴を履きとおすという傲慢さだからです。

少女カレンにとって赤い靴は私の利用できる道具であり、所有物です。別の言い方をすれば、私のモノでもあるのです。

しかし、人間はそういうわけにはいきません。自分以外のものはすべて他者のものです。したがって、他者のものを含めた他者は絶対に自分の中に取り込めないのです。所有物になり下がらないものであり、道具として絶対に利用できないからです。

なので、人間の高さとは他人であり、他者そのもののことです。他人だけは認識できないのです。もし、認識できるとしたとしたらモノになり下がってしまうのです。

そうなるとどうやって他者と関わればいいのかが問題になります。人間の高さが他者なら、自分は最も低みに立つ以外にないのです。

自らは人間の低さに立つことで、ようやく他者と同等の関係が生まれるのです。それをレヴィナスはデジール(désir)の関係と捉えたのです。

デジールとは、希望と願望とか祈りとか憧れともいわれます。つまり、他者への憧れこそが最も他者との関係を表しているのです。

憧れとしての他者

他者とは「憧れ(désir)」以外の何物でもないといたのは、哲学者レヴィナスです。他者は知の掌握を簡単にはねのけるだけの力を持っているという。

たとえば、どれだけの知能の持ち主でも、専門家であろうとも、ひとたび相手から批判されたら、その言葉、その研究、その理論はたちどころに雲散霧消うんさんむしょうになってなくなってしまうでしょう。

それだけ他者は、自己以上に高い存在者であり、憧れ以上のなにものでもない存在なのです。仮にも、自分の意見が正しいとつらぬきとおそうとすれば、他者を次々と抹殺しなければならなくなるでしょう。

なので、自分の意見が絶対であるという自分に向かう運動は、いつまでたっても他者に出会えないということになります。誰も観客にいないステージで一人踊っているようなものです。

少女カレンは、最後は天使によって森に導かれて、深い森の中まで休むことなく踊り続けるのです。まさに、観客のいないステージでたった一人踊っているようなものです。

このように、他者がいなければ、自己満足のうちに死すべき存在のなに者でもないことがわかります。

人間は自己でさえない

このことの意味することは、人間は自己でさえないということなんです。少女カレンが単なる自己満足のうちに死すべき存在だったということになるのです。

その意味はどういうことかというと、人間が苦しみが襲い掛かることによって、その安らぎが突き破られ、やがて自己が解体するということを意味するのです。

少女カレンでいえば、森に導かれ、赤い靴と一緒に足を切断される羽目になり、ようやく自己の傲慢に気づくのです。懺悔の日々を寺への奉仕によって過ごすのですが、やがて、自己は無力となってゼロになって死んでしまうのです。

人間の本質も同じです。自分の力ではどうすることもできない病魔という苦しみがいつ襲い掛かるかもしれません。その意味することは、自己は自己でなかったことを悟る以外にないのです。

「自己を超えた何者か」がほの見えてくる時がだけでも来るのです。こうしてどうにもならない他者に直面して、その背後に他者がいることを悟るのです。

少女カレンでいえば、神の使い天使が森へといざない懺悔の手伝いをすることからもわかります。ただ単に、悪いことをしたら罰を受けるという問題ではないのです。

まとめ

他者とはいずれにしても、自分の中に同化できないものです。なので、はじめから自己というものが実は自己ではなかったということが当然わかるということです。

人間は、しかし、自己を太らせることで汲々になっているうちは、わからないのです。それが病魔が当然襲い掛かることで、ようやく自己の存在が、他者の存在につながっていることが理解できるのです。

少女カレンは、赤い靴の存在を通してそれが理解することにつながってくるのです。

ある日突然、交通事故に遭ったりなどの不幸は、自己がコントロールできないことがらです。何らかの超越的な出来事が起こったということなのです。

少女カレンにとって、森の入り口は、苦しみの門だったということになるのかもしれません。

結局、それは、苦しみという門を通して見える、超越者との関りを媒介にして、他者の苦しみの自覚されてゆくということに至るのです。

少女カレンがようやく神の愛に気づいたことで、最高の安らぎ、今までに味わったことのないような境地にたどり着いたことを意味するのでしょう。最高善(幸福)とはそういう境地を指すのです。


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