ラ・トゥール『大工のヨセフ』に見る光の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

この絵画はジョルジュ・ド・ラ・ツゥール(Georges de La Tour, 1593-1652)が描いた『大工のヨセフ』(Saint Joseph charpentier1642年)です。光の効果を追求した画家として有名です。

私たちを含めた物体は、物が光にあたって、物体が光ることで初めてそのものが何かを理解できます。なので、物そのものが光るわけではありません。

神の現われとは、神自体が光るわけではなく、光に照らされたものが働きの担い手となるのです。まさにこの絵はその働きを具現化しています。

ろうそくの光は、暗闇を照らし、幼子イエスの顔を見事に写し出しています。特にろうそくを持った手は光に透けているにもかかわらず、光を通して指までも光っているのです。

ところで、神は宇宙のどこを探しても存在しません。しかし、光が照らされたものは、まるでそれ自体として光り輝いているように見えます。それが神の働きであり、愛の働きなおです。

アリストテレスは、この世は神の働きの場であるといっています。なぜなら、この自然世界は、神によって創られたからです。

しかも自然は自分自身のうちに自分の在り方を決める根拠(アルケー)を持っているといいます。たとえば、麦の種を土に蒔けば自発的に成長し、実をつけます。このような自然の働きも神の働きです。

光は闇の中で輝いている

私たち人間は闇の中にいます。大司教アウグスティヌスでさえ、私は弱い人間です、神の導きがなければ何一つ善いことができないといっています。

ここでいう闇とは、聖書でいう罪悪のことです。人間は罪を背負って生きています。我執(エゴ)が悪行を働かせるのです。しかも、私たちから我執(エゴ)を取り除くことは絶対できません。

我執(エゴ)とは、財産、名声、地位などの力によって他を支配しようとする欲求です。生きていくために必要な食欲に至るまでをいいます。なので、生命そのものに宿っているといっても過言でありません。

暗闇とは、人間が悪行を働かせるたとえば、暗い部屋にあるごみは見えません。しかし、光に照らされると、小さなホコリも見えるようになります。なので、暗闇は人間そのものです。人が見ていないところで悪行は行われるのです。

ラ・トゥールの『大工のヨセフ』の絵はまさに暗闇に光る一本のろうそくです。光に照らされ、はじめてヨセフは大工仕事ができるのです。

人生には神の働きが満ち満ちていますが、その働きは見えません。なぜなら、神の導きとなる光が照らしだされてはじめて正しい道が見えるからです。

なので、神の働きがなければ、暗闇の中を、バラバラなエゴイストたちがうごめいているだけです。

しかし、ろうそくのようなかすかな光でも、闇を照らすことで、我々の心の奥底に、気づかないほど静かに愛の炎が燃えています。

存在することの苦しみ

そもそも、人間は苦しむ存在です。なぜなら、死という最大の苦しみを背負って生きているからです。それは、暗闇に向かってひたすら生きることでもあります。

しかし、そのような苦しむものの中にこそ、ろうそくのような一条の光を見出すことができるのではないでしょうか。愛は苦しむものを通してしか成立しません。

そのために神は、人間に本質的に苦しむものであるという罪を与えたのでしょう。なぜなら、苦しむものの中に愛が育まれるように仕向けられているからです。

たとえば、偶然に苦しんでいる人に出会った時、その呻きへの応答が他者との関わる責任です。これには、理屈や論理は通用しません。単なる応答(response)に対する責任(responsibility)でしかないのです。

もう一度、『大工のヨセフ』の絵を見れば、幼子イエスの将来を暗示しているのです。なぜなら、ヨセフは磔刑のための杭を彫っているからです。

人は苦しみという闇の中に放り出され、やがて苦しみの中で死を迎えます。そのように人間は罪を背負って生きなければならないように仕向けられているのです。

ヨセフは人生の経験者として幼子イエスに将来の出来事をそっと暗喩あんゆしています。それは、存在することの苦しみとして誰もが経験することです。

認識できないもの

人間は認識できないものとしてこの世に存在するという意味では神に類似した存在なのです。人間は無であり、「存在の彼方」でもあります。

なので、他者の支配下に入らないこと、いついかなる時でも「否」ということ、それこそが自由という意味なのです。もし仮に、それが認識できたなら単なる物になり下がってしまうのです。

たとえば、テスラのロボットはすべての部品の集合体であり、人間の作った範疇の中で動くようになっている。ただし、最近のAIの発展によっては、ロボットが独自に思考するようになれば、単なる物でなくなるかもしれない。

このように、「自由なるもの」「絶対に超えることのできない断絶の彼方にあるもの」こそが他者なのです。私たちはそのような者と生きているのです。

ヨセフですら、幼子キリストのことはわからないばかりでなくその逆もしかりです。同等の地平にいるのでなく、絶対に手の届かないところにいるのです。

常に私たちより高い地平にいるのです。そういう意味では他者は神といえるのかもしれません。

そうした他者と共にあるという状況が根源的事実なのです。と同時に、他者は死にさらされたものでもあります。他者は財産や地位をもって威厳を作ろうとするものですが、死にさらされたものとして助けを求めているのです。

なので、ヨセフも幼子キリストといえども、この世に存在するものとして他者であり神でもあり、ともに苦しむものとし矛盾するものとして存在の肯定を贈っているのです。

おわりに

ラ・ツゥール『大工のヨセフ』を題材に人間の本質について考えてみました。彼の絵は光の闇との関係を見事に描き出しています。

光は闇があって初めて意味を成します。その逆もしかり、闇は光によって見えないものを浮き彫りにしてくれるのです。人間は本来は暗闇の中を生きています。

なぜなら、神の光を導き手にしなければ、暗闇の中に転落してしまう存在だからです。大司教アウグスティヌスでさえ「私は弱い人間です。神の助けがなければ、何一つできません」と神に懇願しているのです。

それほどまでに人間は罪深い存在なのです。放っておけば、悪行を働きかねない存在なのです。なので、善業を繰り返し生きていくためには、神の導き手である光を必要とするのです。

キリストの照らす光こそが人間の正しい道しるべになることをこの絵は予感させます。同時に、生きることがいかに茨の道であるかをヨセフは予言しています。

もちろん、幼子イエスは知るべくもありません。しかし、暗闇を歩く人間には、神の導き手が必要なのです。その伝道者こそが、ろうそくの光に輝く幼子イエスなのです

 

 

 

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