目次
1.はじめに
2.カントの正義感
3.善と悪の正義感
4.ソクラテスの弁明
5.まとめ
はじめに
正義とは何か。果たして人間に「正義」を言う資格があるのかを「トロッコ問題」から考えてみたい。
ではなぜ、人間には「正義」をいう資格がないのだろうか。結論から言えば、完全ではないからだ。
人類2千年の歴史の中で今だに戦争を繰り返している現実を見ただけでも明確なのだ。
ところで、トロッコ問題は以下の内容だ。
暴走したトロッコの先に5人がいて、そのままトロッコが突っ込むと5人は死んでしまう。でも、あなたが路線を切り替えるレバーを引けば、5人の命を助けることができる。逆に切り替えた場合には1人が死ぬという仕組みだ。
この問題は、きわめて倫理的問題であり哲学的領域なのだ。どちらに転んでも人は死ぬ。でも、5人死ぬより1人死んだ方が5人は助かるということもある。
瞬間に判断を迫られた場合、人間はどう判断するのだろうか。あるいは神ならどうなのか。
「正義」はいったいどこにあるのだろうか。人間は多くの場合瞬間的にレバーを引くだろう。どちらに転んでも非常に後味が悪い。
カントの正義感
ところで、カントは正義をどう考えたのか。一言でいえば、人間の自由を保障する以上は、道徳的法則(法律)に従わなければならないということである。
なぜなら、人は放っておけば人を殺しかねないからだ。なので、カントは、「人は絶対に他人を殺してはならない」という法律(定言命法)が必要だと説いたのである。
もう少し、哲学的にカントを考えると、人間には、感性、悟性、理性という認識によってモノを判断しているというのだ。
簡単に言えば、モノを見た瞬間の判断が感性的認識なのだ。例えば、リンゴは様々な情報がインプットされているためにリンゴと判断しているのである。
要は、以前に食べて味わっているからこそ、これがリンゴだと瞬間的に見て判断できているにすぎないのだ。
ところが、まったく情報がなければ、何かの赤い物体にしか見えない。
つまり、感性的(感覚的)判断がいかにあいまいなものなのかということである。
したがって、ものの認識には、まず感性的認識があって、次に悟性(知性)的認識によって、納得するまで高めていく。さらに、理性によってその理由を明確化できる段階に達するのである。
善と悪の正義感
哲学は人間の善と悪について主に扱ってきている。正義とは善であり、不正義とは悪であるということでもある。
善の追求こそ人間としての生き方であるとソクラテスは考えた。依頼、プラトンもアリストテレスも善の追求をしてきたのである。
その考えはキリスト教と合体し、アウグスティヌスやトマス・アクィナスによって、さらに磨きをかけるに至ったのである。
したがって、欧米社会の考え方のベースになっているのは、善としての生き方であり、人間としての善の追究なのである。
なので、人間は放っておけば、悪に傾くため、生涯にわたって、知恵を学ばなければならないというのだ。それが善の追求であり、人間の義務なのである。
では、なぜ放っておけば悪に傾くのか。アウグスティヌスは人間は無(死)に傾く存在だからだといっている。
なので「俺は何をしてもかまわない、自由だから」という発想になる。この点をカントは自由だからこそ自制が必要だと説いている。
「人を絶対に殺してはならない」という究極の命令は、「人は人を傷つけてはならない」というきまり(定言命法)の上に自由があることを忘れてはならないといっているのだ。
ソクラテスの弁明
ソクラテスはまさに哲学の祖だ。有名な言葉に、自分の心に嘘偽りがあってはならない」といっている。
最終的に裁判の中で死刑を言い渡されるのであるが、最後の弁明が「うそ偽りをもって命乞いなどできない」といって毒を飲んだのである。
世にもすぐれた人よ、君はアテナイ人であり、知と強さにおいてもっとも偉大な、最も名の聞こえた国の一員でありながら、金銭をできるだけ多く得ようとか、評判や名誉のことばかり汲々としていて、恥ずかしくないのか、知と真実のことは、そして魂をできるだけすぐれたものにすることは無関心で、心を向けようとしないのか。
プラトン=田中、藤沢2010:18
人間であるとは善く生きることである。決して媚び諂うことなく、周りに同調しないことこそ自己の自由を守ることであるとソクラテスは考えたのである。
自己の自由を守るとは、人間であることの条件なのだ。もし仮にこの自由が奪われたとしたら、自らモノになり下がる存在になることである。
死してなお自分の信念を曲げない生き方を貫いた人だったのである。
正義を貫いて、自分の心にうそ偽りのない信念を持っていた人だったといえる。
まとめ
さて、「正義」について、トロッコ問題を足掛かりとして考えてきた。結論はどちらを選んでも正解であり、不正解であるということだ。つまり正解はない。
なぜなら、「正義」という観点から考えると、人間の判断は極めてあいまいであり、法の力を借りなければ正義はなり立たないことがわかるからだ。
かといって、戦争などはどちらも「正義」という大義名分を掲げて戦っているのだ。
したがって、歴史を通して人間が培ってきた法と自由の関係の熟成が現代に貢献しているのである。
現代の法律のベースになっているのは、聖書が大いに貢献していることは確かである。
既に2千年以上の歴史の中で、傷つけられたものの立場に立って人間の傲慢を裁いてきたからに他ならない。
人間はもともと完全ではないので、完成を求めて生涯をかけて知恵を学ばなければならないとトマスは言っている。
自由が人間であるための条件である以上、それを自制する法が必要なのである。
ソクラテスは「善く生きる」ことが「人間になる」ための条件であるといっている。
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