ベラスケス「セビーリアの水売り」から垣間見える人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

「セビーリアの水売り」は、バロック期のスペインの巨匠ディエゴ・ベラスケスが1620年ごろに描いた初期の作品である。まだ20歳という若さで、ここまで描き切る技術は11歳でフランシスコ・パチューコに弟子入りしたことが大きい。

彼の絵の特徴は、今までの宗教画とは一線を画し、「頭で描く」ものではなく、見たままの現実を、きわめて写実的に自然にあるがままに描く点にある。

なので、徹底的なリアリズムを追求した点だ。したがって、陶器の美しさと、そこに水滴がつくさまは、その現場の空気感さえ漂うようだ。

一方でこのリアリズムは、今までの宗教画による神の存在が、決して神秘の世界ではなく、現実世界の、しかも生活の一コマに潜んでいることを意味していることが重要である。

それが、「聖なるボディコン」といわれる所以である。それは、有名な「ヘラクレイトスの一喝」に通じているように思われる。神は教会や神殿にのみいるのではなく竈の炭火の中にも神がいると説いたのだ。

彼ベラスケスは、ルネサンス的な高貴な宗教画による神の表現から、現実世界の徹底的なリアリズムの中にこそ神が宿ることを教えている。

なので、人でも物でも神の前にすべて平等であり、神の意志によってこの世に存在するという「存在」論が本質にあるのだ。

ここで重要なのが、宮廷画家としてのベラスケスではあるが、既に宗教画家から脱し、セビリアの市民生活を描くことで、その時代に生きていた人々の姿が浮き彫りにされていることだ。

神は宮廷だけにあるのではなく、本来はもっとも貧しく虐げられた人々のためにあることを、ベラスケスは、徹底的なリアリズムを通して明確にしたといってもいい。

神と人との相互内在

人間とは、自由な主体として自分でやりたいことをやって能動的に生きる。一方で、神によって受動的に生かされているという2面性を持つ。

しかし、神によって動いているとしたら、能動性も受動性も同じ人間の表裏の関係でしかない。なので、日常の欲求とか行為とかという、出来事の中で神の働きがあるということなのだ。

アリストテレスはその働きを「エネルゲイン(energein)」とよび、古代ギリシア語のἐνέργεια(エネルゲイア)=「内部で働く働き」といっている。それは聖書の次のことばから来ている。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

ピりピ人への手紙2:13

力のみなぎる瞬間は誰にだってある。その働きこそ神の働きなのだ。なぜなら、主体的だと思っていたその力の源は、自然に湧き上がるものだという思い込みに過ぎないからだ。

この自然的世界は神によってつくられた。なので、自然には秩序や法則がある。たとえば、稲が実り、植物が芽を出す、雨が降る、地震が起きるなどすべて自然の働きである。

その一部に人間の働きがあるということが自然な考えだ。神が大地の中で働いているという大原則がある。それが、エネルゲイアなのだ。

セビリアの水売りという単なる老人にしか見えないが、そこに神が宿っているとしたら、清めの巡礼にも見える。水を求める少年は、罪を洗い清めるというバプテスマのようにをみえる。

水もしかり。このころのセルビア地方は、水は貴重な飲み物でした。ただ水といえども、自然の秩序の働きの一部である。自然本性の力そのもので、そのまま神の働きなのだ。

この絵をその様に見れば、水売りの老人に化けた神と少年に化けたキリストのようにも見受けらる。その奥にはうっすらと描かれ、水を飲んでいる行為が人間の罪深さを表している。

宇宙という神秘

我々は呼吸したり、水を飲んだり食べたりしている。つまり宇宙そのものの中にいるということ。アレオパゴスのパウロの説教に次のことばがある。

神は土の塵から人の形づくり、そして、鼻に命の息を吹き入れられることによって、人は生きるものになりました。つまり、人間は神によって創造されたのであり、人間が神を創造するのではないのです。言い換えるならば、人間の一切の起源は神にあるというのです。

使徒言行録17章22~34節

つまり神は、「我々の中で」働いているということだ。我々の存在そのものが神秘であり、宇宙という神秘の中に生きているということである。

セビリアの水売りの老人は、いのちの水を人間に与えているという風にも見える。化身としての老人は、人間が生きるために日ごと夜ごと糧を与え、養っているのである。

少年といえども、罪深い人間である以上、悔い改めなければならない。そのための清めの水なのだ。

ところで、存在することが愛の働きで在るとすれば、存在には苦しみが付きまとう。なぜなら、愛には裏切りと、背信と、憎悪と破滅が付きまとうからだ。その苦しみが、他者を愛するということだとすれば。存在そのものの本当の姿なのである。

この水売り人は何を隠そう「神の本質を受け継いで、その働きを続行する者」であり、神の働きと一つになって働いている人だ。なので、水は清めの水であり、穢れを落とすのである。

当然それを飲む少年は、「神の子」です。宇宙が神によってつくられたのであれば、すべての人間は神の子なのだ。だから、水を分け与えるものは愛の働きであり、与えられた者も愛の働きを受けうるものなのである。

おわりに

単なる水売りの老人がヨハネであるならば、その水をもらう少年はイエスだ。彼はイエスに洗礼を施した。ルカによる福音書に次のような言葉が残っている。

谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くなる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らにせよ。

イザヤ書40ー4~5

洗礼者ヨハネは、もっとも弱い者とともにあれという意味でイエスに洗礼を施したのだ。決して驕り高ぶるな、常に低みに立ってものを考えよと諭したのである。

人でも物でも神の前にすべては平等であり、神の意志によってこの世に存在するという「存在」そのものに対するベラスケスの執着だったともいえる。

人間は時に傲慢になり、自らを破滅に導く。持って生まれた強欲ゆえに。それに対するためには、知恵を得なければならない。高ぶりは自らの破滅を引き起こすことを自制するために、低みに立って物事を考え続けるしかないのだ。

何が善で何が悪かを決めるのはすべて自分を通してである。しかし、それはややもすると自分で勝手に決めてしまいがちになりやすい。

それが、時として大きな過ちにつながるのだ。自分の頭を通して考えざるを得ない以上、罪は繰り返す。苦しみや悲しみはそのためについて回るのである。

なので、自分の過ちを認め、その都度悔い改める赦しを請う必要がある。それが、バプテスマであり、水による清めなのである。

傲慢である人間には、洗い清める神の力が必要だ。自らの価値判断で決めてしまうことほど恐ろしいことはない。そのためには、山になった自分を戒め、谷を埋めなければならないのだ。

セビリアの水売りは単なる水売りではない。この絵には深い意味があるのだ。人間の罪深さを清めるための行為だ。奥にうっすらと描かれている人間は罪深さの象徴なのだ。

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