グリム童話『森の中の三人の小人』から読み取る人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

目次

  1. はじめに
  2. 成功の奴隷
  3. 執着を手放す
  4. へりくだるもの
  5. まとめ

はじめに

グリム童話に『森の中の3人の小人』という物語があります。概略次のような内容です。

昔、お母さんがいない女の子と、お父さんがいない女の子がいました。2人の親が結婚します。ある日、お父さんのいる娘は継母ままははに、いちご摘みをするよう言い渡されます。その日は凍るような寒い冬でした。その森の中で娘は偶然に3人の小人と出会います。

さて、小人と出会った美しい娘は、パンを分け与えます。そのお礼に小人1人ひとりから願い事が言い渡されます。1人は毎日もっと美しくなる、1人は話すたびに口からお金が出る、最後の1人は王様と結婚する。というものでした。

その話を聞くや否や義理の妹は小人に会いに行きます。ところが、挨拶もせず、パンも分けてあげず、とても行儀が悪いと小人たちに言われます。3人の小人からあげるものは1人は日増しに醜くなる、1人は話すたびにヒキガエルが出る、最後の1人は、みじめな死に方をするのです。

やがて1年がたち、王様とお姫様に子どもが生まれ、幸せに暮らしていました。それを僻んだ継母と娘は、お見舞いのふりをして宮殿に乗り込みます。お姫様はその娘に川に投げ捨てられます。しかし王様に助けられ、その後、継母とその娘は釘の樽に入れられて処刑されてしまいます。

さて、ここからが哲学です。嫉妬心の強い継母とその娘は、富や名声そして快楽に溺れ、傲慢で高ぶる者になります。一方の母親と血がつながっていない娘(継娘ままむすめ)は、日増しにきれいに、素直に育っていきます。

それが面白くありません。血がつながっていない方の娘に嫉妬し、嫌な仕事をあてがい、日を追うごとにその嫌がらせは増していったのです。

人間は絶えず人の評判を気にして生きています。いつでも、名声を求め成功を願う動物です。それはまるで、成功という鎖につながれて、まるで成功の奴隷になっているようです。

あなたにも心当たりがあるはずです。人の声にたえず耳をそばだてているのではないでしょうか。

成功の奴隷

そこで、成功の奴隷にならないためには、富や快楽などのあらゆる執着から解放されなければなりません。ただ、継母やその娘は富や名声や他者に対する執着を手放すことはできませんでした。

結論から言えば、その執着を取り去ることは人間にはできません。なぜなら、生きること自体が執着(食べることが最大の執着)だからです。

なので、血がつながらない娘の美しさが憎くてたまりません。しかも、次から次へと無理難題を押し付けます。特に、冬の寒い日に、いちごをとってこいと命ずる始末です。

人は人生の成功を願って生きていることも事実です。そもそも、生きるということは、自己実現にあるため、あらゆるものを手に入れたいという気持ちが強いのです。

その典型が継母やその娘で、異母兄弟である娘がきれいになることが許せません。ましてや、大金を手にしたものですから増々嫉妬します。

人間のエゴは絶望的に執着して生きているのです。たとえば、家や財産に、また生きている間の時間に、そして数ある名声に、たくさんの人からの評判に、あるいは職業に、そして自らの成功に、人生そのものに、あるいは、自らの容姿に至るまで・・・。

継母やその娘はその典型であり、けっして例外ではなく、すべての人間の持っている欲望からなのです。

なので、人間は成功という鎖につながれ、必ず成功しなければならならないという思い込みから、けっして失敗は許されないのです。継母は血のつながらない娘に対して執拗以上にいじめを繰り返します。そして最後に殺してしまうのです。それはまるで成功の奴隷になっているようなものです。

執着を手放す

しかし、執着からの解放はなかなかできるものではありません。たとえば、食べるもの1つとっても、好きなものの執着を脱することは容易ではありません。特に今の時代はあらゆるものがそろっているからです。

このように自己中心性は生に張り付いているのです。逆に言えば生きている以上は執着が抜けないということでもあります。

人間の能力の較差もその一つです。能力は自分ではどうにもなりません。自分が作ったものではないからです。なので、能力を含め、容姿を含め、人間自体は何らかのもの(神)からの贈り物として考えるより仕方なのです。

ということは、贈り物である能力のあるものが稼ぎ出した成果は、自分だけのためではないことも事実です。社会のため、他者のために用いられるべきなのです。つまり能力は社会の共有財産なのです。

つまり、贈り物である以上、あらゆる執着から解放されなければならないはずです。森の中の3人の小人は、神からの使者(おくりびと)です。自分のことばかり考えているものには大きな報いが待っているのです。

人間は、能力のないものや容姿の醜いもの、あるいは弱者に対して差別意識が働きます。少しでも強くなろうするのです。それらはすべて力がはたらいているからです。

その力は、高ぶる者になり、傲慢になるように、神から仕向けられているのです。そのようになってからでは手遅れなのです。傲慢は没落の人生を歩むことになります。

へりくだるもの

森の中の3人の小人は、傲慢な娘に3つの願をかける。1つは、ますます醜くなる、2つは話すたびにカエルが飛び出る、3つはみじめな死を迎えるというものです。

一方の、やさしい娘には、増々美しくなる、お金が口から出る、王子と結婚ししあわせになるというものです。

このことは現実の人間にも当てはまるのです。自分を大事にし、自分に価値があるとか、自分を肯定するとかはすべてエゴイズムの運動です。なので、継母のように釘の樽に押し込められて死ぬ運命にあるのです。

一方、へりくだる者とは、凡夫であるという自覚です。それは、自分の無力さを思い知らされた時にわかるのです。具体的には「もうどうすることもできません。助けてください」という境地に立った時なのです。

たとえば、天変地異や病気など自分の力ではどうにもならない時に起こる心境です。人間関係でも苦しめる人、厄介な人など何か自分を超えたものがわからせてくれたのです。つまり自分で自覚できないということです。

グリム童話の『森の中の3人の小人』の母親のいない方の継娘はきれいで素直な少女です。小人にあった時にその性格は出ます。自分の持っていたパンを惜しみなく差し出すだけでなく、小人たちの生活の手伝いを進んでするのです。へりくだる者とはこうゆう人です。

まとめ

グリム童話の『森の中の3人の小人』を通して、人間の本質について考えてきました。聖書の格言にこんな言葉があります。

知恵を得ることは、金にはるかに勝り、悟りを得ることは、銀にはるかに勝る。正しい人の大路は悪から離れている。その歩みに気を配るものは自分の命を守る。うぬぼれは破滅に先立ち、傲慢は没落に先立つ。貧しい人とともにへりくだることは、高ぶる者とともに分捕り品を分けるのに勝る。

旧約聖書『箴言』16章16-19

https://seisho-shinkaiyaku.blogspot.com/2010/12/blog-post_3088.html

物語の継母はまさにこの言葉通りの自惚れと傲慢によって命を落とします。一方の腹違いの継娘は貧しい人とともにへりくだるものは命を守るのです。

腹違いの継娘は、徹底的に継母から嫌われ、死すべきものとしてい家から追い出されます。いうなれば極限の弱者です。そして、それに応答する森の中の小人も弱者です。ここに、弱者でなければわからない叫びが聞こえるのでしょう。

極限の弱者の叫びを聞くことができるのは、神以外にないからです。つまり極限の弱者に呼応するのは極限の弱者しかいないのです。

一方、相手が自己保存の本能だけで動いているような、他者を自己のうちに取り込んで、自己の支配を強固にすることだけに専心するようなエゴイストである娘には、森の小人は、鉄拳を振るいます。増々醜くなり不遇の死を遂げよと告げるのです。

あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。

新約聖書マタイによる福音書20章26-27

https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/20.htm

「人の上に立ちたい者は、人に仕える者になれ」とイエスは教えています。それは本当のみじめさを体験したものでなければわからないのでしょう。

大司教といわれたアウグスティヌスも次のように言っています。

わたしは弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。それどころか、何が善であるかも知ることもできません。どうかあわれんで私を照らしてください。

アウグスティヌス=山田晶1996:40

これが本当の人間の姿です。そこまで、極限の底辺まで朽ちなければ、人間は決して貧しいものとともにへりくだることはできません。

うぬぼれは、すべて力によるものです。人間にあるものは力ではなく最も弱いものであることの自覚なのです。そういうものに神は支え寄り添い続けるのです。

一見、弱く見える森の小人は、最も弱いものを支える精霊であり神の使いです。本当は、極限的に低いものは、極限的に高いものなのです。執着のない者とは、最も弱い、弱者といわれている人のことだったのです。

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