はじめに
この絵本は、人間の本質について見事に言い表しています。絵本の概要は以下のとおりです。
赤ちゃんが生まれた時、一人ひとりみんなに「かみさまからの贈りもの」が届きます。5人の赤ちゃんが生まれます。1人の人の赤ちゃんには「よくわらう」を。大きな赤ちゃんには「ちからもち」を。泣いている赤ちゃんには「うたがすき」を。よく動く子には「よくたべる」を。すやすや寝る赤ちゃんには「やさしい」を。
神さまは、1人ひとりの赤ちゃんにすばらしい贈り物を贈っているのです。神さまは人間の尺度ではなく、その人の幸福を願って贈り物をしているのです。
なので、できる、出来ないなどの能力などではありません。その人の徳性は一人ひとり違います。一人ひとりの違いはその人の個性です。人間にはなぜ個性があるかはわかりません。
たとえば、障害者が生まれる確率は100人に1人とさえています。これもなぜ生まれるかは人間にはわかりません。しかしこれも神様からの贈り物です。
本当の幸せは、人間の尺度ではわかりません。神は最も弱いもの、最も虐げられたものに光を当てます。
人間の尺度では、地位や名誉、財産、頭の良さや容姿に憧れます。しかし、これらは、すべて力による支配が働きます。
本当に幸福を得るものは、最も虐げられた、最も弱いものにあると、神は考えていて、人間の尺度とは真逆なのです。
人間の分際
人間の本質が、傷つき易さ(vulnérabilité)、受動性(passivité)、死すべきもの(Sein zum Tode)であるということです。
なので、どんなにお金があっても、人間が肉体であるということは、人間が死ぬ者であるということ。そこから、生きるということは、はじめから本質的に苦しむということがわかります。
つまり、人間には分際があるということです。ある意味では、人間にはどうにもならない苦しみが襲い掛かるということです。自己を超えた何者かによってコントロールされているのかもしれません。
当然、子ども一人ひとりにも神からの授かりものがあるはずです。生まれてくるという存在の本質には、「無からの者であると同時に、在らしめられて在るもの」であるとアウグスティヌスはいっています。
彼は、悪は人間自身の欲望からであるが、善は神の助けがなければ何一つできないとまで言います。
人間には分際があり、自分では何一つできない領域が備わっているのかもしれません。
神の働きの場
人生には神の働きが満ち満ちているけれども、しかし、その働きは見えません。なので、神の場に置かれていることに気づいた人には、そこに神の愛が現れるのです。
たとえば、赤ちゃんが生まれた時、無事に生まれてほしいと祈らずにはいられません。そこに神の愛が生まれます。そして生まれた赤ちゃん一人ひとりに神の働きが宿るのです。
なので、赤ちゃんには個性が宿り、それぞれにそれぞれの徳性が宿るのです。人間の視点で見れば能力のある、ないという見方をします。しかし、神の目で見れば、一人ひとりに一人ひとりの大切な個性が備わっているのです。
人生を幸せに送るためには、能力を含め、地位や名誉、財産に恵まれたとしても、それは力による支配であり、神を遠ざけ、人を不幸にするものです。
それよりも神の働きが宿る場は、いと小さき者です。いと小さきものとは、貧しいもの、無力なものです。このように、弱い者だけが愛を受けることができるのです。
あるいは、他者を愛することができるものです。たとえば、金持ちは地獄の中にいるのです。貧しい人は他者と触れ合うという天国の中にいるのです。
神の働きの場
この世は神の働きの場です。神の働きに包まれています。自然的な世界は神によってつくられています。したがって、宇宙全部を含めて自然には秩序や法則があるのです。
自然の秩序や法則があるのは人間の分際で知る余地はありません。神の範疇だからです。自然にも世界にもそれぞれの自立性によって成り立っているのです。
なので、花は種類によってそれぞれが最高の美しさを誇ります。どれが一番美しいなどという比較は存在しません。人間も全く同じです。それぞれがそれぞれの自立性によって美しいのです。
アリストテレスはそれを「己自身の内に運動と静止のアルケー(原理)をもつもの」と規定しました。それは、「自然は自分自身の内に自分のあり方を決める根拠(アルケー)を持っている」という意味です。
自然は全く自分から動いていますが、その自然の働きこそが神の働きなのです。稲が実るとか、雨が降るとか、これはみな自然法則に従っておこっているわけですが、同時にみな神の働きなのです。
赤ちゃん一人ひとりにも自律性と同時に神の働きが働いています。なので、よく笑う子、力持ちの子、よく食べる子、よく泣く子、それぞれがそれぞれの徳性を持って生まれてくるのです。
自然に咲く花と同じように、どれが一番美しいという比較はできません。それぞれの個性によってそれぞれが一番美しいのです。人間の赤ちゃんも全く同じです。
おわりに
『神様からの贈り物』を通して、人間の本質ついて考えてみました。人間は「無からのもの」だけれども、ただそれだけではなく「在らしめられて在るもの」だということです。
それは、神から何らかの徳性を授かるとともに、それによって何らかの神の愛がそこに宿っていることがわかります。なぜなら、たとえ障害をおって生まれたとしても、その子に、より多くの愛が授かっていることがわかります。
なぜなら、誰よりも、たくさんの人の愛をその子が受けることが保障されているのです。そのたくさんの愛によってその子は生きることを保障されているのです。もしそうでなければ、その子は生きることすらできないからです。
ヨブ記の神も「無知なる者が神の経綸を批判するな」と叱責したのです。それゆえ、悲劇的偶然と神の善性はどう両立するかは、人間にはこの世の終わりまでわかりません。
そういう意味では、人間は無知のままであるべきなのかもしれません。最後にこの言葉を引用して終わります。
あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。
あなたは十二宮をその時にしたがって引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。
あなたは天の法則を知っているか、そのおきてを地に施すことができるか。
あなたは声を雲にあげ、多くの水にあなたをおおわせることができるか。
あなたはいなずまをつかわして行かせ、『われわれはここにいる』と、あなたに言わせることができるか。
雲に知恵を置き、霧に悟りを与えたのはだれか。
だれが知恵をもって雲を数えることができるか。だれが天の皮袋を傾けて、
ちりを一つに流れ合わさせ、土くれを固まらせることができるか。
あなたはししのために食物を狩り、子じしの食欲を満たすことができるか。
彼らがほら穴に伏し、林のなかに待ち伏せする時、あなたはこの事をなすことができるか。
からすの子が神に向かって呼ばわり、食物がなくて、さまようとき、からすにえさを与える者はだれか。



