『哲学のおやつ』から読み解く人間の本質~超哲学入門い歩前~

哲学・倫理

はじめに

『哲学のおやつ』はこどもから大人まで気軽に読める本になっています。様々なタイトルの中から、「知っていると知らない」は特におすすめの内容です。

なぜなら、知ることによって、人は自由を獲得することができるからです。仮に人は自由でなかったならどうでしょう。おそらく、自分の意志や考えがないまま、他人の言うままになってしまうのではないでしょうか。

猫だって自分の意志がちゃんとあります。空腹になれば、飼い主にちゃんと餌をくれと要求してきまし、それだけでなく、自分が一番安心できる場所を確保することも心得えているのです。

仮に、人間が何も知らなければ、何かを選ぶことも、決断することも出来ないばかりか、他人の為すがままに動く、まるで空中に浮かぶ風船のように漂うのではないでしょうか。

なので、人が平和に暮らすためには何が大切かを見極める力を身に着けることは、生きる上で最も大切なことではないでしょうか。そのためにも知ることは、究極の意味で、人がより善く生きる上で必要不可欠になってくるのです。

自己として生きる

「生きる」ということは、先ず、その基本において、自分の力で稼いで、ご飯を食べるということ。そのためにも「知ること」は大きな手助けになるはずです。

ただ自分のためでなく、他者のために生きるということがそれ以上に問われます。なぜなら、自己は他者の助けによって自己になることがあるからです。

自由であることは人間として、とても大切だけれども、自由な人間同士が助け合うことはもっと大切なことなんです。なぜなら、人間の最大の喜びは人との交わりにあるからです。

人は世界を少しずつ知識を得ることで、理解してきました。しかし、まだまだ分からないことだらけです。その最大のものが身近な他人だということです。

人は自己を確立すればするほど、他人も同じように自己を確立します。そのため、他人を理解することはもっと困難であることがわかります。

自己として生きれば生きるほど、人間は自由を獲得していくことは確かです。一方で、自分を太らせることに夢中になり、他者を寄せ付けないようになってしまうという落とし穴があるのです。

ドアの向こう側

なので、人間の知的欲求は際限がありません。見たい知りたい気持ちは知れば知るほど強くなります。ドアの向こう側とは、何があるかわかりません。例えば、月のお裏側や火星の裏側には何があるかと興味は尽きないのです。

しかし、人間は最も身近な他人ですらわかりません。なぜなら、他人はわかったと思った瞬間、既に亡骸だけ残して立ち去ってしまうからです。

他人に近づこうとする運動は、どこまでいっても自己満足に到達しません。そういう意味では他者は「憧れ(dèsir)」でしかないのかもしれません。

他人は認識できると思ったら、他人ではなくなってしまい単なる物となってしまいます。なので、他人はあくまでも、ドアの向こう側にいる認識できないものなのです。

レヴィナスは、他者とは「絶対なるもの」、「私から切り離されたもの」であり、私と他者の間には深い深淵があるといっています。

仮にドアの向こう側の人が、声をかけてくれるということは奇跡的なことなんです。ただし、人間にとってはそれがとてもうれしいことなんです。

絶対認識できないもの

人類の歴史は世界を認識する歴史でもあります。つまり「知りたい」という人間の知的欲求は、様々なものを認識する歴史でもあったのです。

しかし、最も身近な他者は認識できません。なぜなら、認識したとたんにその人間はモノと化してしまうからです。そういう意味で人間は「無」であり、「存在の彼方」なのです。

なので、いかなるものに対しても「否」ということができ、他の力の支配下に入らないということです。なので、人は人に対して自由な存在なんです。

ということは逆に考えると、決して自己満足のない関係であり、いつでも他者は自分よりはるか高みに存在している存在者なのです。

つまり、その働きは「憧れ」でしかないという意味では、他者こそが神の働きを持つもかもしれません。自己という存在になぜ苦しみがあるのかといえば、自己の中に他者がいるからです。

そういう意味では、他者とは、人間だけでなく、自然災害を含めてあらゆる苦しみをも含めた広がりがあり、存在することの深い意味がそこに横たわっているのです。

おわりに

他者とは他人だけではなく、自然そのもののことではないでしょうか。なので災害を含め、人間を襲う病魔や老いなど、ありとあらゆる痛みのことなのかもしれません。

人間が存在することには様々な痛みがそこにはあります。我々が人生の歩みの中で、苦しみとともにあるということです。

我々は、自由を手に入れたその代償として、様々な痛みが存在の中に横たわっているのです。その他者は私の知を超えるものとして絶対の高みにいるのです。

存在は、存在者(神を含めた自然そのもの)によって、「在らしめられて在る」ことによって、存在をはるかに超えた存在になっていることはたしかです。

一人ひとりの存在は、まさに神の信託によって在る存在者の働くそのものなのではないでしょうか。ただ、神でさえ自由なものを支配することはできません。ましてや、人間はなおのことです。なので、他者は「憧れ」でしかないのです。

人間の知りたいという知的欲求は、知れば知るほど果てしない「彼方のもの」なのです。それは別な言い方をすれば「憧れ」がその原動力になっているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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