はじめに
この絵本『さっちゃんのまほうのて』を通して人間の本質について考えてみたいと思います。あらすじは以下のとおりです。
生まれつき右手指に欠損を持つ女の子さっちゃんは、幼稚園のままごとで、周りの子から容赦のない言葉に深く気づきます。
とうとう幼稚園に行かなくなってしまいます。 しかし、父に手に指のないのは「それはまほうの手」だと促されます。父母の愛情豊かに育ったさっちゃんは、徐々に自信を取り戻していくのです。
友達と活発に遊ぶことで、指のない障害を忘れるほどさっちゃんは活発になります。幼稚園のジャングルジムもものともせずに登っていくのです。
この本は、生まれ持った障害(先天性手指欠損)の子に対して、親はどう接し、どう障害のあることを伝えるのかという大きな問題が横たわっています。
しかし、家族の愛情に包まれたさっちゃんは、持ち前の負けん気でそれを乗りこえていくのです。そのきっかけを作ったのが父のことばと母の愛情が大きな支えになっているものと思われます。
カリスを贈られた者
そもそもカリス(charis)とはギリシャ語のカリス(χάρις)で、葡萄酒を入れる杯(聖杯)のことです。
好意を示すという意味があり、そこから発展して、「恵み」「恩顧」「感謝」「愛」へとつながります。
なので、原意は「好意」です。聖杯に葡萄酒を入れて、好意あるいは善意を捧げるということになります。
ものを贈るというだけでなく、貰っていただくという行為です。施すのでなく、仕えるという真意が隠されているのです。
カリスを贈られた者とは、最も惨めなもの、最も虐げられた者、最も無力なものだということです。
たとえば、さっちゃんのような障害を持った人のことです。このように最も弱いとされているものだけが愛を受けることができるのです。
なぜなら、無力なものは他者を愛することができるひとだからです。逆に、地位や名誉や財産のある人は、自分を守ることが威厳だと思い、自己を開くことはありません。
「金持ちは不幸である」あるいは「金持ちは不幸の始まり」という言葉があります。その真意は、自分を守ることばかりに汲々として、他者を愛することができないのです。
我々は神のゲノスだ
「我々は神のゲノスだ」という意味は、我々は神の中で生きている、動いている、存在しているということです(en autòi gar zòmen kai kinoumetha kai esmen)。
生きているということは、毎日心臓が動き、呼吸しているということです。それによって手が動き仕事ができる。
でも、なぜ心臓が動いているのか、手が自由に動き、それによって、仕事ができることはだれにもわかりません。
それが当たり前になっているのです。生まれつき手の指がないさっちゃんも同じです。なぜ指がないかは生まれつきなので自分でもわかりません。
ただそれは「神のゲノスだ」ということです。神からの賜物なのです。別の言い方をすると「魔法の手」なのです。
なぜなら、それによって、もちろん酷いいじめにあうかもしれません。 しかし、それによって、大きな助けを得ることにもなるかもしれません。
ただ、人生の中で、普通に手のある人よりもいっそう善意の手が差し伸べられる可能性を秘めているのです。
弱者の叫び
弱者の叫びとは何でしょう。最も弱いもの、力をふるえない無力の者のことではないでしょうか。その代表が赤ちゃんでしょう。
赤ちゃんは最も無力の者であり、力をふるえないばかりでなく、助けを求めて泣き叫ぶしかありません。愛は弱者の叫びであり、それへの応答なのです。
赤ちゃんがかわいいのは、愛が純粋であり、力を振るえないものだからです。 さっちゃんが手指のない状態で生まれたのは、弱者中の弱者ということになります。
さっちゃんは、最も力を振るえないものの中でも、もっとも振るえない1人です。 神は最も弱い弱者中の弱者として現れるといいます。
現実的には最も弱いもの、最も虐げられた者の姿をとって現れるといわれます。 聖書(マタイ25:35-41)では、飢えたもの、渇いたもの、旅人、裸の人、病人、囚人、さらに孤児とか寡婦ということになり、神はそういうものとして現れるといわれています。
神は無名の者(インコグニート)として現れます。弱者、被差別者、ハンセン病者、死にかけたものの姿をとって現れるという所以です。
おわりに
今年の高校野球は70万人を超える観客で人気をはくしました。その一因として、手指の欠損している横山選手が注目を浴びました。
まさにさっちゃんと同じ境遇です。まさに「魔法の手」がもたらした奇跡なのです。横山選手は全国高校野球のチームの中でベスト4の一員になるまでには、計り知れない努力の結果だったに違いありません。
ただし、そこに至るまでには、多くの愛が隠されていたに違いないのです。最も無名のインコグニートだったのです。
人間は、この宇宙の中で、食べ暮らし、何不自由なく手や心臓が勝手に動いています。神によって「在らしめられて在るもの」なのです。
そういう意味では、神の働きが内に宿しているのです。横山選手しかり、さっちゃんしかり、神の力を宿して生まれてきているのです。
横山選手の活躍がどれだけの多くの人の心に、勇気と希望を与えたかは計り知れません。人間は人を癒す働きに参与し、人を救うものとして存在しているのです。
それが「在らしめられて在るもの」なのです。人生は長いようで儚いものです。死すべき者、病むもの、苦しむものとしての在るという宿命を背負い、微小なりとも他者を癒すものとして在ることの意味を考えてみてはいかがでしょう。



