宮沢賢治『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』から読み解く人間の本質~超哲学入門一歩前~

哲学・倫理

はじめに

宮沢賢治の著書の中でもあまり知られていませんが、面白く読みやすい本に『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』というものがあります。

その中身は、人間の持つ傲慢さと高ぶる者は破滅する運命にあるという戒めになっています。人間は生きている以上、本質的に自然本性的欲求によって、地位や名誉や財産を欲するように出来ています。

この物語の背景には、当時の東北地方の飢餓と貧困に喘ぐ農民の現実があるように思われます。口減らしといって子どもたちは養子に出されたりといった過酷な世界だったようです。

主人公のネネムも貧困に苦しむ農民一家として育ちます。ある時飢餓に苦しむ両親は、幼子ネネムと妹のマミミの2人を置いて森へ行ったきり帰ってきませんでした。

2人は奴隷となって生きていくしか術はありませんでした。ネネムは昆布取りの大男につかまり、奴隷のように使われます。途中にはぐれたママムも同様、大道芸人の仲間に入れられ、奴隷のような生活を送るのです。

こうして二人は、幼少期から、最も虐げられた、最も弱きものとして、いつ死んでもおかしくない生活をして暮らさざるを得ませんでした。

愛を受けうるもの

愛を受けうるものとは、ネネムやママムのように、最も弱い者、何もないもの、助けてもらわなければ生きていけないものです。

たとえば、こどもは小さき者の最たるものです。なぜなら、親なしでは生きていけないからです。さらに親がいなくなれば、死が待っているか、まったくの赤の他人に助けてもらうしか生きていけないからです。

ネネムは奴隷労働をしながらも、書記になるという夢を持っていました。そのために、10年ほど使われたのち脱走します。

そして、首都(ハンムンムンムンムン・ムムネ市)を目指します。首都につくまでにたくさんの人に助けられ、夢かなって書記の学校を出て世界裁判長にまで昇り詰めるのです。

このよう小さくされた者、最も虐げられた者、最も貧しい者は最も愛を受けうる者なのです。そういうものに神の働きが宿るのです。

なぜなら、ネネムは初期になりたい夢がかない、しかも世界裁判長にまで昇り詰めることができたのです。それもこれも、最も小さくされ、最も弱き者たちに助けの手が差し伸べられたのです。名もなき人たちによってすくわれたといっていいのです。

本当の人間の交わり

人間は強ければ強いほど皆はいいと思っているけれど、実はそうではありません。人間は弱ければ弱いほど本質的な意味でいいのです。

しかし、それがわかるまでにはすごく大変な経験が必要です。ちょうど、ネネムやママムのように、自滅寸前まで行かなければわかりません。

しかし、人間は本質的に能力とか、体力とか、美貌とか、社会的地位とか、みんな力で武装して生きているわけです。そういう力が無くなってしまえば、その人は見捨てられてしまうのです。

しかし、ネネムやママムのようにはじめから何も持っていなければ、もうその人に近寄る人はいません。せいぜい奴隷のように使われるしかないのです。

しかし、もし誰かが近づいてきたとすれば、それは奇跡的なことなのです。能力のなく、社会的地位もなく、お金もない人に誰が近づいてくるのでしょう。

でもそういう人に近づき交わることができたときに、初めて、人間は本当にありのままの人と交わることができるのです。ネネムがそうであったように、夢をあきらめずに、多くの人に助けられて書記になったのも、まさに多くの人に助けられたからなのです。

本当の幸せとは

本当の幸せとは何でそしょう。人間の不幸とは、「自分、自分」と自分のことばかり考えているから、人間はみな不幸になるように出来ています。

その本質に、つまり存在の根底に苦しみがあるのだということではないでしょうか。欲望は苦しみとともにあるということです。

一方、もしも存在することが愛の働きであるとするならば、存在することは苦しみが付きまとうということです。欲求と同時に愛も同時に愛するということが共存しているのです。

なので、愛には裏切りと、背信と、憎悪と、破滅が付きまとうからです。存在することの苦しみが、他者を愛するということだとすれば、それが存在することの本当の姿だということです。

つまり、喜びとか幸福とかということは、苦しみを背負うということの内にあるのかもしれません。なので、他者の裏切りを無条件で赦し続けることの内にあるのでしょう。

しかし、それは想像を絶することの内に本当の喜びということがあるのかもしれません。たとえば、年を取ることで、できることができなくなっていくという現実や病気になっていくことでわかっていくことなのかもしれません。

あるいは、ネネムがそうであったように、生まれた時から苦しみを背負って生きなければならない境遇にさらされ、苦しみを背負っていく中で幸福を掴み取るしかなかったのかもしれません。

おわりに

宮沢賢治の『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』を通して人間の本質に迫ってみました。結局、ママムもネネムも親に捨てられ、奴隷になるしかなかったのです。

その苦しみを背負って生きるということは、実は人間の村税の本質の中に最初からあったことなのです。存在することの本質に苦しみがあったということです。

神は一人ひとりの存在の根底に埋め込まれているのです。これには理由などというものはありません。苦しむものの内に神は働きとして現れるということです。

なので、神は見えないばかりか、存在することすら許されないのです。ですから、我々の働きを通して神は現れるということになるのです

ママムやネネムがそうであったようにどん底を味わったものでなければわからないことなのです。しかし、そこから神の力が働くのです。

それは、他者という神に助けられなければ生きていけないことなのです。ネネムがそうであったように他者という存在に助けられなければ書記という夢がかなわなかったのです。

何か我々が想像を絶することの内に、本当の喜こびがあるのかもしれません。なので、本当の幸せは、苦しみと切っても切れないものとして、はじめから神の内にあるのだと思います。

年を取る、あるいは年齢を重ねるという逃れられない現実は、苦しみを背負って生きているという証でもあり、存在そのものの内に苦しみを背負っているということなのです。

しかし、そこにしか本当の幸福は見いだせないばかりか、ネネムのように、他者の裏切りを無条件で癒し続けるというようなありかたの内に、本当の幸福があるのかもしれません。

 

 

 

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