目次
- はじめに
- ヨハネの手紙
- 愛を受ける者
- 愛の自覚
- まとめ
はじめに
この少年の絵は、ムリーリョの作品です。ムリーリョはスペイン南部の大都市セビリアを中心に活躍したバロック美術の巨匠です。
彼の生きた時代は、レコンキスタ運動によってユダヤ教からキリスト教に代わる激動の時代の真っただ中にありました。
したがって、キリスト教(カトリック)のセビリア大聖堂に飾られる宗教画が大勢を占めていました。いわば、カトリック教徒の宣伝として彼の絵は使われていたのです。
しかし、彼はそういった宗教画だけに飽き足らず、当時の社会情勢を映す題材に、少年を選んで書いています。
この「窓枠に身を乗り出した農民の少年」は、貧しい農民の生活のほんのささやかな一場面に過ぎません。ただ、この少年のほほえましい笑顔は、誇張のない、まったく自然な、どこにでもいる少年のひとこまを描いているのです。
かえってそれが、誇張のある宗教画の中でもひときわ目立ち、輝きを醸し出していたのかもしれません。
ヨハネの手紙
神は目に見えません。神が存在するかどうかも誰もわかりません。ただ、私たちが互いに愛し合うならば、神は私の内に留まるとヨハネは説いています。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
新約聖書ヨハネの手書き1-4:16
このように神は働きだということです。働いたときに現れるため、人は神の働きの中に置かれているわけです。
ところで、この少年の屈託のなさはどこから生まれてくるのでしょう。貧しい農民の子として、はじめから丸裸同然に何も持っていません。
なので、なのも持っていないわけですから、弱者そのものです。貧しいゆえにお互いに助け合わなければ生きていけません。自分で自分を守ることが初めからできないのです。
そのとき人が人に触れるということが起きます。それは奇跡的なことなのです。なぜなら、外から人をこじ開けることは決してできないからです。
人間を力とか強制的に外からこじ開けることができないということが、人間の尊厳そのものだからです。仮にもそのようにしたときは、人間として扱っていないのです。
モノとして扱うということは、相手に暴力を振るっているのと同等です。
しかし、人間の心は暴力をふるう人に向かって開くということは決してありません。どうです!この少年の屈託のない笑顔は、まさに自然の微笑です。
暴力とは真逆の、愛の力が働いているとしたら、まさに神の働きが宿っているとしか考えられません。
愛を受ける者
貧乏人の農民の子とは真逆の大金持ちの大人は、自分を守ろうとします。金持ちはたいてい、自分の才能とか名誉とか財産とか地位とかを守ろうとします。
けっして自分の弱さを人には見せません。それが威厳だと思っているがゆえに、自分のこころを開こうとはけっしてしません。
なので、金持ちは不幸なのです。なぜなら、愛の交わりに決して入ることができないのです。聖書で次のようなたとえがあります。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい
新約聖書ルカ18章25
金持ちは、金銭や物で支配しようとしますが、それは、他人の土地に暴力的に入り込んで物を投げ与える行為にほかなりません。
愛とは真逆の行為で、お金や物は施すのではなく、物やお金をもらっていただくことでしか支えることはできません。
なので、農民の子のように無力なものは幸せなのです。なぜなら、弱い者だけが愛を受けることができるからです。
愛の自覚
人間が愛の働きをしているとき、何的な自覚もしくは体験です。その愛の働きの根源として、神が考えられるということです。
その働きを宿すこの絵の貧しい農民の子が「神の国に入っている人、交わりの人」だということです。
たとえば、光は目に見えません。しかしこの絵のように、明暗をくっきりと描くことによって、光が物体にあたり、光ることによって、少年の顔が浮かび上がるのです。
人生は神の働きが満ち満ちているのですが、しかし、その働きは見えません。なので、この少年のように神の働きの担い手として、具現化した時、神の働きが現実化するのです。
この作品の作者ムリーリョこそが、神の手として神の国に入る少年を描いたということになります。
まるで、自分の子供を疫病で亡くしてしまったという罪を償うかのように、ムリーリョ自身が神の分身となって、光を描いたのかもしれません。
ムリーリョ自身の愛の自覚こそが、その人間が神の働きの担い手として、描いたことで、傑作となってその作品に命を宿したのでしょう。
まとめ
この作品は彼の晩年の作品です。修道院で制作することが多かった彼は、足場から転落した事故がもとで65歳で亡くなっています。
その間、セビリアのフランシスコ会修道院の装飾事業を手掛け、スティロ・パポローソ(薄もや様式)という幻想的な作風を編み出したとされています。
彼の最高傑作とされる『無原罪の御宿り』は聖母マリアの純潔性を見事に表し、乙女のようなマリア像とそれを取り巻く小天使たちは、次世代絵画であるロココ美術を先取りしたともいわれています。
彼は自分の子供をペストで5人も亡くしたことで、おそらくは罪のゆるしを乞うために、命がけで描いたのでしょう。
特に晩年はぼろをまとった貧しい少年を熱心に描き続けた姿は、自らが神となって、絵に光を与えることで、神を宿した風景画になったのかもしれません。
17世紀バロック期のスペインの黄金時代の美術を代表する画家として、現在、ルーブル美術館をはじめとして世界有数の美術館に常設されています。



