はじめに
トマス・アクィナスは中世ヨーロッパを代表するスコラ哲学の代表的神学者であり、カトリック教会の聖人でもあります。彼の著した代表的著書『神学大善』はまさにキリスト初学者のために書かれたものでした。
彼の最大の功績は、アリストテレス哲学とキリスト教学を統合し、体系化させたことにあります。特に、アリストテレスの存在と本質という概念を神と被造物(人間)との関係に組み入れた点なのです。
人間は神という本質に向かって存在している被造物であるという独自の捉え方がトマスの核心です。なので、人間は本質に向かって現実態として現世に在り、本質(神)に向かっている途上の人としてとらえているのです。
なので、人間をあくまでも途上の人(in via)という意味で旅人(via)であり、その完成に向けて、現実態としてこの世にあるものなのです。
その原動力は、知りたいという自然本性的願望が本質的に神から授けられたいるというのです。それが神的本性を分有するという意味です。
そういう意味では、人間は不完全で生まれ、不完全で終わる一生でしかありません。しかし、現世において、神の本質を直視することで、たまに、善い意志を働かせる能力を授かっているともいいます。
なので、その都度神になることが現実として可能で、その時間の経過とともに最高の能力を発揮することができるのではないでしょうか。ただし、無限(神)にではなくその都度(現実態)ということがみそです。
我々の中で働く神
「神は存在する。あなたたちの中で働いているものとして存在する」(フィリピ人への手紙2:13)とパウロは言いました。働くとはギリシャ語でエネルゲイン(energein)です。アリストテレスは欲求(テレインthelein)するとき、神があなたたちの中で働いているといいました。
トマスもまさに、この欲求こそが自然本性的願望であり、神の働きであるといっています。そこに本当の幸せが隠されているのかもしれません。
なぜなら、アリストテレスは、アレテー(徳性)に生きる生き方こそ幸福につながるといっているからです。自らの自然本性的欲求こそアレテーであり、本当の力が宿るのです。
私たちが、自らの好きなことをやっているときこそが、力が発揮されるように、そこには、神の力が働いているのです。自然本性の力こそ、神の働きなのかもしれません。
日常のいたるところで神の栄光が現れてくる場所なのです。例えば、急にエアコンが利かなくなったなどのトラブルがあり、故障の原因を探り、直った時などはそこに神の栄光が現れたともいえます。
また、私たちの知らないところで、神の働きが日夜働いているからこそ、健康で毎日おいしいご飯を食べることができるのかもしれません。きわめて当たり前のことでも、突然そのような当たり前の日常は簡単に壊れることがあります。
生きている以上、不幸は突然誰にでも襲い掛かります。事故や病気、自然災害などなど、まさか自分がと思っていても誰にでもそのようなことは起こります。
現世(via)という道(via)
トマスは、人生を旅(via)と捉え、人間はまさに現世を行く旅人(viator)であると考えました。なので、現世を歩む旅人である人間は、希望に向かって歩むことこそ最高の幸せの在り方なのです。
しかし、そのためには知恵を学ぶことが必要であり、特に、キリスト教初学者にとっての「聖書」は、幸福へ導くための手引き書なのだと捉えているのです。
そのためにトマスは、命を削ってまでも『神学大全』という膨大な著作に取り掛かったのです。彼が最も力を入れた点は、知恵の探求であり、それが幸福の追求と結びつく点にあります。
人間の究極の目的を幸福(最高善)と捉えている点は、アリストテレスの「観想の生活」に依拠しています。トマスの「知恵の探求」こそ「観想の生活」だったとも思われます。
現世(via)という道は、「知恵の探求」そのものであり、幸福へ導くための最も大切なことだったのです。この作業こそが「観想の生活」そのものなのです。
ただ、究極の目的である幸福は達成することはできません。神に近づく作業が、トマスにとっては幸福の探求であり知恵の探求だったのです。
そこには終わりがなく、ただ、現世という道は旅人(viator)のごとく歩み続けるしかないのです。「知恵の探求」とは人間にとって終わりがないのです。なぜなら、欠陥を伴った人間にできることは、少しでも神に近づく努力でしかないのです。
それが現世(via)という道(via)であり、人間は旅人(viator)に過ぎないのです。
何のために生まれたのか
トマスにとって、人間の究極の目的は幸福であり、何のために生まれ、何をして生きるのかという、人間特有の迷いは、すでに人間が生まれた瞬間から決定づけられているといいます。
なぜなら、人間は幸福(最高善)に向かって生きるように仕向けられているからです。ただ残念ながら知恵を学ぶ努力を怠ったものは真の幸福をつかむことはできません。
特に人間の欲望は際限がないため、傲慢という罠に落ちるように出来ています。人間は権力や名誉や財産の追求こそが最も幸福に近づける道だと考えています。
ところが、それらは達成したと思っても、際限がないことに気づくはずです。しかもそこには本当の幸福はありません。人間の本当の幸福への近道は何もないところから見えるものなのです。
「ここにも神がいます」とヘラクレイトスが叫んだ。その先とは竈の炭火でした。たんに老いぼれた爺さんが火にあたっていたにすぎないのですが、神がいたるところにいることをが、あるいは幸福がいたるところにあることを人間にはわからないのです。
それがわかるためにはトマスの言う「知恵の探求」しかないのかもしれません。
おわりに
トマス・アクィナスの『神学大全』をとおして人間の本質について考えてきました。しかし、この膨大な書物を読み通すことは不可能です。しかも、トマス自身が未完のまま途中で投げ出しているのです。
キリスト教初学者でさえ理解するのはたやすくないと思われます。ただ、人間が何のために存在し、どう生きるのが本当の道かをキリスト教学を通して、命を捨ててまで考え抜いた人であることは間違いありません。
人間は未完で生まれたからこそ、完成に向けて努力を積み重ねなければならないという宿命をおっています。生まれた瞬間からそのように仕向けられているのです。
それをトマスは、途上の人(viator)と呼び、現世((via)という道を歩む旅人(viator)であるといいました。そこに終わりはありません。未完である人間は、未完のまま終わる存在です。
自然本性的欲求(エネルゲイン)に突き動かされて生きている人間は、原罪を抱えながら、さらに罪を重ねて生きる以外にありません。
その様な人間でも、はたして幸福をつかむことができるのだろうか。トマスの結論は、命を捨てて、知恵を得るために学び続ける以外にないといいました。
そのための王道はありません。ややもすると自惚れや傲慢に落ちる高ぶる者は、貧しい者とへりくだる以外にないのかもしれません。「正しい人の大路」(格言の書16-19)は人間にはわからないからです。



